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世界の「健さん」、私の「健さん」

日比遊一監督=仙波理撮影



シネマニア・リポート Cinemania Report [#10] 藤えりか



健さんを知る日本と米国、中国、韓国の計約40人にインタビューし、ゆかりの地を訪ねたドキュメンタリー『健さん』が20日、日本で公開された。ロサンゼルス特派員だったころ、米国の人たちと日本の俳優の話題になると、決まって出るのが「トシロウ・ミフネ」か「ケン・ワタナベ」で、同じケンさんでも高倉健さんを知る人には米国でついぞお目にかかったことがない。小学校3年で健さんのファンになった私は寂しく感じつつ、彼の寡黙なイメージは一般的な米国の価値観とは必ずしも合わないかもしれず、仕方のない気もしていた。それが実は、作品で直接かかわりのなかった何人もの著名な映画監督までもが信奉していたとは。


健さんは2014年に亡くなって以来、日本で数多くの人たちに語られてきたが、海外の声がこれだけまとまって映像になったのは画期的ではないか。撮影したニューヨーク在住の日比遊一監督(51)に、東京都内でインタビューした。

『健さん』より © 2016 Team "KEN SAN”

「『律義』で『寡黙』で『手が届かない』、そんなカリスマにしてしまうだけではなく、映画俳優としていかに、どんな風にすごかったか、世界の著名人の言葉できちんと残したかった。『高倉健』を知らない若い人たちに、健さんは日本が誇る俳優なのだと証明するためにも大事だと思った」。日比監督は言う。



海外勢のインタビュー映像を見ると、健さんへの畏敬の念がそれぞれ伝わってくる。米映画『ブラック・レイン』(1989年)で共演したマイケル・ダグラス(71)は当時、アカデミー主演男優賞に輝いた『ウォール街』(87年)などですでに押しも押されもせぬスターとなっていたが、「その彼が、健さんには『緊張した』って言ってましたからね」と日比監督は語る。


ダグラスのみならず、『ブラック・レイン』で撮影監督を務めたヤン・デ・ボン監督(72)らも健さんをたたえてやまない。公開時は、これがハリウッドデビューかつ遺作となった故・松田優作の存在感がむしろ話題になっていたのを記憶しているだけに、驚きを感じる。いかにも日本的に一歩引いた役回りの健さんに、彼らも美学を感じたのか。

『健さん』より、マイケル・ダグラス © 2016 Team "KEN SAN”


仕事で直接かかわったことのある映画人だけではない。マーティン・スコセッシ監督(73)が健さんとひそかに書簡を交わしていたことも、ドキュメンタリーは浮き彫りにする。健さんは、スコセッシ監督のロバート・デ・ニーロ(73)主演映画『レイジング・ブル』(80年)を好きで何度も見たと生前公言していた。このため日比監督は、「スコセッシ監督とも接点があったんじゃないかと勘が働き、インタビューを申し込みました。でも手紙のやりとりもしていたというのは僕もびっくりしましたね」。俳優や演出家、写真家、映画監督としてニューヨークを拠点に活動して30年になる日比監督はさまざまなツテを頼みにインタビューを重ねたが、スコセッシについては難渋したそうだ。半年待っても返事が来ず、「ダメだと思ってあきらめた」ところへ「今だったらいいよ」と返事がきたという。そんなスコセッシが具体的に健さんをどんな風に語ったかは、ぜひ映像で味わってもらえればと思う。

『健さん』より、マーティン・スコセッシ監督 © 2016 Team "KEN SAN”


香港のジョン・ウー監督(70)は『男たちの挽歌』(86年)でチョウ・ユンファ(61)に、『フェイス/オフ』(97年)でジョン・トラボルタ(62)やニコラス・ケイジ(52)に、『ミッション:インポッシブル2』(2000年)でトム・クルーズ(54)に、『レッドクリフ』前後編(08、09年)でトニー・レオン(54)に演出する際、高倉健を常にイメージしたと語っている。中国は、『君よ憤怒の河を渉れ』(76年)のヒットや張芸謀・降旗康男監督の日中合作『単騎、千里を走る。』(05年)などで映画界にも根強いファンがいるとはいえ、ハリウッドでも活動するウーにとってそんなに存在感が大きかったとは、日比監督も「広東語の通訳を聞いて耳を疑いました」と振り返る。

『健さん』より、ジョン・ウー監督 © 2016 Team "KEN SAN”


そして、彼らの多くが健さんの映画を撮ろうと試みた、とインタビューで吐露している。健さん自身が断ったものもあれば、快諾したものの予算などで実現しなかったものも。実現していたら世界でもっとその名が響き渡っていただろうにと思うが、その希少性もまた「健さん」なのかもしれない。


日比監督が健さんのとりこになったのは、86年の渡米後だった。俳優としてオーディションを受け続けるなか、「まだよく言葉が通じず友だちもいなくて寂しかった頃、持って行った健さんの映画のビデオを見たり、健さんの書物を読んだりするようになった。そうしてどんどんひかれていきましたね」。渡米のきっかけを作ったのはなんと松田優作だ。18歳で郷里・名古屋から東京に出て演技を学び、撮影現場で出会った15歳上の松田に「俺がお前の年なら今すぐにでもニューヨークに行く」と言われ、「真に受けたんです」。その後、ニューヨークで松田やダグラスの『ブラック・レイン』の撮影を2度見に行ったというから、縁は異なものだ。


日比遊一監督=仙波理撮影

さて、私はなぜ小学校3年にして健さんファンになったのだろう。我ながら、長年の疑問ではあった。「健さん」は一般的には「男の中の男」と称され、昭和期の「マッチョ」イメージ。「何かをなすのに性別なんて関係ない」として生きてきた私とは、一見相いれなそうだ。


私の健さんとの出あいは『野性の証明』(78年)だ。公開の翌年にテレビで放送されたのを見て、子ども心に鮮烈な印象を受けた。設定のリアリティーうんぬんはさておき、健さん演じる自衛隊の味沢岳史・1等陸曹が巨悪に単身立ち向かう姿にしびれた。アイドル全盛時代、当時48歳の健さんの写真が載った新聞の切り抜きを後生大事に持ち歩くようになった9歳の私は、級友からも教師からも奇異に見られたのを覚えている。


そうなったワケについても、このドキュメンタリーからヒントをもらったように思う。健さん主演の『幸福の黄色いハンカチ』(77年)や『遙かなる山の呼び声』(80年)を撮った山田洋次監督(84)の言葉がしみた。「健さんが似合うのは、どこにも所属しない人間、あぶれた人間、まともな管理社会に入りきれない人間。そん中でこう、じっといろんなつらいことを耐えているというタイプに、大勢の日本人は無限の共感を寄せたんじゃないかな」


私は小さい頃、わりと大人に囲まれることが多かったせいか、あるいはもともとの性分が大きいのか、静かに図書館に通ったり映画を見たり、ひとりで行動するのが好きだった。気の合う少数と話し込むのは好きだったが、同級生とわいわい騒いで群れるのにはなじめず、スポーツも苦手で、それをからかう心ない級友もいた。それでも「人に合わせなくていいんだ」と「健さん」がスクリーンで示してくれた気がして、うれしくなったのかもしれない。本当の健さん=小田剛一は必ずしもそうではないかも、とは9歳なりに感じとってはいても。同じ頃、クリント・イーストウッド(86)や故スティーブ・マックイーンの映画をよく見たのも同じ感覚なのだろう。大げさに聞こえるかもしれないが、このあたりを機に私は「彼らの映画のように、知らないうちに個人が押しつぶされていくようなことが世の中にはいっぱいあるんだ」と幼心に思い、新聞記者を志すようになった。人生、何がきっかけをつくっていくのかわからない。

『健さん』より © 2016 Team "KEN SAN”


マックイーンにも連なる「健さん」像に共感するのは日本だけではないはず、と改めて思う。日比監督は言う。「海外で本もいっぱい出た三船敏郎さんに比べて、健さんを世界できちんと解説する人がいなかったんじゃないかと思いますね。日本の人にもその価値をもっと知ってほしいし、それ以上に世界の人に知ってもらいたい。このドキュメンタリーはあちこちで上映したいですね」。日本公開に先立ち、まずは6月に上海国際映画祭でお披露目した。今月25日から始まるモントリオール世界映画祭でも上映される。モントリオールは健さんが降旗監督『鉄道員(ぽっぽや)』(99年)で日本人初の主演男優賞を受賞した場でもある。


海外で「健さん」が広く語られるようになる日が、待ち遠しい。






藤えりか(とう・えりか)

朝日新聞「GLOBE」記者。

1970年生まれ。経済部や国際報道部などを経て2011~14年にロサンゼルス支局長、ラテンアメリカを含む大統領選から事件にIT、映画界まで取材。映画好きが高じて脚本を学んだことも。ツイッターは@erika_asahi




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