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「正解は何ですか」。日本の学生は常に求めているようだ。期待される答えは何かということに、学生が敏感になっている。受験システムでこうなるのだろうか。
日本の学生は「正解」に対して素直だ。ある問題の正解Aと別の問題の正解Bとの間の矛盾に気づかない面さえある。

日本の司法試験は、何か正解があって、それを書かせようとする傾向がかなり強い。日本では、司法試験が終わると、法務省が出題趣旨を公表する。それを知った時、私はびっくりした。
米国領グアムで司法試験を受けた時のことを思い出す。家族法で次のような長文問題が出た。
「ある夫婦と未成年の子どもがいた。夫が秘書と浮気し、同棲を始めた。離婚の際、子どもの親権はどうなるか」
私は「問題の設定では、秘書は男性なのか女性なのかがはっきり示されていないため答えかねる。しかも、『秘書イコール女性』というジェンダー的な仮定には問題がある」といった趣旨の答えを書き、それでも合格した。
この問題でどのくらい得点できたかはわからないが、試験で求められているのは「正解」ではないとは言える。一般的には、思考プロセスをしっかり表現できるかであり、グアムの場合には、設問についての問題点を指摘したこと自体が一種の能力と評価された可能性もある。
法律家に求められるのは、情報としての法律をどれだけ知っているかではなく、いかに法律情報を処理できるか、なのだ。
弁護士の場合、今抱えている具体的な事件と、これまでの判例とはどこが同じでどこが違うのか、的確に判断する能力が求められる。言い換えれば、「有意義な(significant)事実」を識別する能力だ。
問題になりそうな部分を識別することは、イシュー・スポッティング(issue spotting)ともいう。何が重要で何がそうではないのか。理由を説明しながら体系的に整理し、他の状況と論理的に区別する技能である。
いま、目の前にあるケースは、どの点が判例と違うから、異なる結論を出さなければいけないのかを明確にする。前例を攻撃し、比喩や類推(analogy)の力を使い、法律を道具として使いこなす――そうした思考様式こそ、私が法科大学院の学生に伝えようとしているつもりのものだ。
正解や、想定される筋書きの裏から攻められたときにどうするか。悪用された場合はどうするか。常に考えないといけない。それが実世界では重要だ。
もちろん、相手が悪いという見方が常にいいとは限らない。単純な文化比較は好きではないが、我々よりも日本のほうが人の気持ちを考える。和解に持っていくには謝罪した方がうまくいく、という面には留意しておいた方がよい。
ある企業法務関係者は、法科大学院出身者を採用するにあたって、「正解のない世界で活動できる人材が欲しい」と話していた。私が上に述べた思考様式は、その要請に応えうるものだと思う。
弁護士が企業にとってもう一つ重要なのは、「外部」としての役割だ。社外取締役と同じような存在といってもいい。
多くの日本企業の法務部は、普通の社員で構成されているため、会社と運命共同体であることに変わりない。何かあったときも、最終的にストップをかけるのは難しいかもしれない。
しかし、企業内弁護士は最悪、会社を辞めてよそに行く道がある。持ち歩きできる(portable)職業資格があるからだ。
私も企業内弁護士を経験しているが、自分の説く道理が通らないなら辞める、という捨て身の覚悟を持てたからこそ、言うべきことを言えたと思う。
日本型の不正では、言うべきことを言った人はお仕置きされて終わり、というパターンが多い。政府や地方自治体でも同じだ。そこに弁護士が入っていけば、不正を抑制する効果があると思う。
しかし、現在は、法律家が企業に入っていくことを想定した養成システムには十分なっていない。法科大学院を志望する学生たちに聞くと、企業法務や国際的なビジネスに関心があるという。ところが、司法試験で問われるのは主に純粋な国内訴訟実務だ。これがわからないと司法試験に通らないのが現状だ。
(次ページへ続く)
1965年、米コロラド州生まれ。カリフォルニア大バークリー校卒業。東北大大学院法学研究科博士前期課程修了、米デューク大ロースクール修了。94年から弁護士(ニューヨーク州など)として米国、香港、日本などで国際商事・金融の法律実務に携わる。2005年から現職。著者に『手ごわい頭脳:アメリカン弁護士の思考法』(新潮新書)、『アメリカ人弁護士が見た裁判員制度』(平凡社新書)。