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世界と日本を考える

[第18回]
脱公共事業時代へ。元土建会社社長が考える地方「自立」の道
山口スティーブ Steve Yamaguchi  トラベル東北社長、日本ソフト・パワー研究所代表

ダム凍結、「コンクリートから人へ」、そして「観光立国」――。鳩山政権が宣言した大胆な方向転換は、東北地方で13年間建設業を営み、今は旅行会社に転じた私にとって身近で引きつけられる課題ばかりだ。気になる点も多々ある。

1992年6月、宮城県鳴子温泉の旅館で、めでたく挙式をあげた
 

1986年、日本政治について修士論文を書くため留学した私は、ひょんなことからそのまま大手商社に勤めることとなった。東京でサラリーマン生活を送る中「運命の女性」に出会う。彼女は山形県の山間地域にある建設会社の一人娘だった。結婚したいという私に対する義父の条件は「会社を継ぐこと」。94年、私は東京を後にした。そして義父が他界した後、日本有数(一人だけ?)の白人の土建会社社長になった。

山形での日々は、それまでの私の日本政治研究が机上のものだったことを痛感させた。教科書に書かれていた政・官・業による癒着の構図が、目の前に広がっていた。

当時、建設業は完全に自民党の持ち物だった。選挙のたび、当たり前のようにポスター張り、車の運転、電話作戦の人員提供などを要求された。党員の数も規模に応じて協会から各社に割り当てられ、名簿の提出を求められた。政治家の秘書が頻繁にパーティー券を売りに来る。交渉で枚数を減らすことはできても、「一切買わない」と断ることなど考えようもない世界だった。

写真上:会社の資材倉庫の前を走る国道工事を受注した時の記念写真(2002年ごろ)、同下:林野庁発注の治山ダム工事(2003年ごろ)

役人も、このシステムに乗っかっていた。業界団体には漏れなく天下りの席が設けられ、業者が納める年会費を原資とした給料と退職金を吸い上げていた。中規模以上の会社にもOBが営業マンとして採用され、仕事獲得のライバルとなっていた。

納得のいかないことは多かったが、従業員に雇用を保障し、家族を養っていくために、目をつぶってやることをやった。国内最大級の「鉄の三角形」は、一人の力で変えられるようなものでもなかった。

もっとも、地元経済に果たす建設業界の役割は大きかった。公共事業への依存度が極めて高かった人口1万2000人(当時)のわが町では、多い時には男性の就労人口の約3割が建設会社に勤めていた。町内のほとんどの世帯に、建設業に携わる家族が1人以上いたことになる。農家も、家族が建設業で稼いだ現金収入があるからこそ、ある程度豊かな生活ができた。

バブルがはじけた後は、景気対策としての公共事業が次々に発注され、残業代もボーナスも空前の額に膨らんだ。その恩恵は、地域の商店街や温泉街、歓楽街にまで及んだ。

小泉を恨めない

私は心配だった。この繁栄はいつまでも続かないと思ったからだ。年寄りたちによれば、遠くない昔、私の住む地域は日本有数の貧困地帯だったという。大きく改善されたのは、「日本列島改造論」が唱えられた1970年代以降だ。先代社長にとって、田中角栄は「神様」のような存在だった。

終止符を打ったのは小泉純一郎だった。首相在任中の5年間、「抵抗勢力」との闘いと「改革なくして成長なし」を大義名分に、地方への公共事業予算を毎年約1割ずつ減らし、業界を徐々に崩壊へと追い込んだ。

業者が多過ぎて、赤字受注以外に仕事をとる方法がない日々が続いた。勤勉な従業員のすさまじい努力にもかかわらず、2007年3月、私は45年間続いた建設会社の看板を下ろす決断をした。

悲しいことだったが、小泉を恨むことはできなかった。建設業の仕組みは、どう見ても持続不能なものだった。

(次ページへ続く)

山口スティーブ氏の略歴

1960年、米カンザス州生まれ。
スタンフォード大学を経て86年、東京大学に自民党政治を研究するため留学。87~93年、三菱商事勤務。94年、結婚により日本国籍を取得。2007年まで山口建設(株)を経営。現在は(株)トラベル東北社長。09年、日本ソフト・パワー研究所(http://jsoftpower.org/)を立ち上げた。

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