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世界と日本を考える

[第14回]「不良外人クラブ」が半世紀を経て
リーダーシップ・プログラムになった

ジョージ・パッカード George Packard 米日財団理事長


ジョージ・パッカード氏

さまざまな分野で活躍する若手の日本人と米国人たちが毎夏1週間、寝食を共にしながら日米関係や地球規模の問題を語り合う。
日米関係の研究や活動を支援する民間団体「米日財団」が立ち上げた「日米リーダーシップ・プログラム」だ。今年で10年を迎えた。

日本と米国で交互に開催する。今年は日本の番で、京都、広島、東京と移動した。
毎年、二つの国からそれぞれ約20人、合わせて40人あまりが集まる。メンバーになったら2年続けて参加してもらう。プログラムを巣立った人は今年で241人。まいた種は確実に育ちつつある。
外交官、ジャーナリスト、宇宙飛行士、学者、議員、自衛隊パイロット、イラク帰還兵、僧侶、牧師、会社員、芸術家……。バックグラウンドは多様だ。日本からのメンバーには、例えば俳優の別所哲也やマラソン選手の有森裕子もいる。米国側はオバマ大統領の選挙参謀だったマーク・アレクサンダー、バイオリニストの五嶋みどり、といった名前が並ぶ。各自、自分の得意分野で1度は発表を行う。

ともに時間を過ごす中で生まれたつながりは、一生続く。国同士が緊迫しても、個人的な信頼関係があれば、乗り越えられる。摩擦が起きても、こうした人間関係が緩衝材の役割を果たしてくれると信じている。
プログラムの構想の根底には、私が半世紀前に経験した日本人との何ものにも代え難い付き合いがある。

全学連と一緒にデモ行進

63年。当時のエドウィン・ライシャワー駐日大使の特別補佐官だった私は、日本語が話せた米国大使館員5人と「不良外人会」を結成した。日本の外務省や大蔵省の若手と一緒に飲み歩こうという会だ。日本側は「不良外人対策委員会」。双方とも下っ端だったから、お互いに何でも話し合えた。
沖縄はいつ返還されるべきかといったことを、率直に議論したものだった。彼らの何人かとはいまも連絡を取り合っている。

私が初めて来日したのは、その前の56年だ。軍の情報部員だった。米国は当時、中国が日本を侵略するのではと恐れていた。私は中国に行き来していた日本のビジネスマンから聞き取りをした。実際には中国の日本侵略の兆候は少しもなかった。
2年後に米国に帰国し、大学院で日本と中国の外交を学んだ。その時の教授が、ライシャワーだった。
博士課程に進み、60年に東大の研究生として再来日した時、日本は安保反対運動のまっただ中にあった。私はこの運動にとりつかれ、博士論文のテーマに選んだ。全学連は東京のあちこちで集会をしていて、私も「安保反対!」と叫ぶ彼らと米国大使館周辺を一緒にデモ行進したものだ。唐牛健太郎ら全学連のリーダーたちとも親しく付き合った。

61年、ライシャワーは駐日大使となった。特別補佐官だった学生が帰国することになり、彼は友人だった私を後任に推薦した。こうして私は63年、大使の「かばん持ち」となった。
私の仕事は日本の若い世代やジャーナリスト、知識層、そして、安保反対運動の中心人物たちと大使を引き合わせることだった。大使は、直接そうした人たちと会って話を聞きたがっていた。

(次頁に続く)

ジョージ・パッカード氏の略歴

1932年、米フィラデルフィア生まれ。56年、米軍情報部員として来日。
63年、駐日大使特別補佐官。
65~75年、「ニューズウィーク」などの記者。
75年に上院議員選に立候補するが、資金難で断念。
79年、ジョンズホプキンス大高等国際問題研究大学院(SAIS)学院長。
98年、米日財団理事長に就任。

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