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作曲面で大きな影響を受けているのは、トルコの民族音楽だ。私はかねて、世界のどんな場所のコンサートにも、何か自分の国のものを持って行きたいと思っていた。
チャイコフスキーの曲にはロシアの、ラベルの曲にはフランスのメッセージが込められている。作曲家としてのファジル・サイの音楽に、トルコのメッセージが込められているのは自然なことだ。
自作の「ブラックアース(黒い大地)」は、トルコの吟遊詩人、アシク・ベイセルの詩にインスピレーションを得た。左手をピアノの中に入れ、弦を押さえながら演奏する。
トルコの音楽は、日本の邦楽と同様、複雑な音階が入り交じる微分音(ミクロトーン)だ。音階が決まっているピアノの鍵盤で微分音を出すことは不可能だが、左手を使い、ピアノの弦をいろいろな方法で押すことで、伝統楽器のサズやウードのような微分音に近づけてみた。
日本の作曲家では、武満徹(1930-96)が非常に興味深い。彼は自分の曲にエスニックな要素をたくさん取り入れている。現代曲だが、これは日本の曲だとわかる。
一方、黛敏郎(1929-97)は、武満より西欧的かもしれない。前衛的な作曲家の中でも極めて才能にあふれており、欧州の現代音楽の作曲家、リゲティやペンデレツキに並ぶといっていい。
黛は西欧化されただけでなく、西欧文化を牽引したのだ。このことはとても重要だ。
ジャズの人たちから「フェスティバルで演奏してくれ」と頼まれる。保守的なクラシック音楽界には「同じ人間が、ジャズの音楽祭でも演奏するのか」という批判もある。しかし、同じ作品をカーネギーホールでもサントリーホールでもジャズの音楽祭でも演奏する。それが自分の音楽なのだ。
作曲したり演奏したりするとき、これが何音楽か、ということは考えない。
「内なる声」を伝えようとすれば、ジャンルの境は自然と越えてしまうものなのだ。
佐渡裕の指揮で、パリでバーンスタイン作曲の交響曲「不安の時代」を演奏したことがある。日本人の指揮者とトルコ人のピアニストが、米国人の曲をフランスで演奏するなど、19世紀にはありえないことだった。これが、グローバル時代のクラシック音楽だ。いま、多くの著名な演奏家は英国人やフランス人ではなく、中国人やイスラエル人、トルコ人やベネズエラ人なのだ。
トルコはイスラム教徒の国だが、世俗国家だ。宗教政党が台頭しているが、大半の人の考え方はヨーロッパに近い。私の旅券には「イスラム教徒」と書いてあるが、信じているのは神よりも「人間の力」「人間のすばらしさ」だ。(イスラム諸国と対立する)イスラエル在住のバイオリニスト、マキシム・ヴェンゲーロフと共演したことがある。
演奏という一つの目標を探求するとき、どの国の人間かは関係ない。自我(エゴ)を抑えて演奏しなければ、いい音楽にはならない。
イスラエル国籍を持つ指揮者ダニエル・バレンボイムが、イスラエルとアラブの若手演奏家で組織するウエスト・イースタン・ディバン・オーケストラを立ち上げたのも同じ理由だ。エゴが数世代に及ぶ中東で、紛争を短期間に解決することは難しい。それでもパレスチナ人とイスラエル人が、音楽という目標に向かって力を合わせることはできる。
日本には、12年前から毎年来ている。日本文化には、作曲する上でインスピレーションを感じている。いつか「東京の夜」といったテーマを曲にしてみたいと思っている。
(訳・構成 GLOBE副編集長 石合力)