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考えてみれば、今日ほど生活しがたい時代はないのかもしれない。失業問題や若者の就職問題が生活基盤を軟弱にしただけではない。そもそも生活感覚自体がすでに破壊されてしまっている。資本の論理が社会の隅々まで浸透してきたのにつれて、「生活」はいつの間にか「消費」に置き換えられた。たいていの現代人は、自分の意思で生活しているというより、コマーシャルや広告の誘導などによって「生活感覚」が形成されている。そのような生活感覚は、用意された環境の中、与えられたイメージの間でしか、選択の余地がないのではなかろうか。
そのような現代社会においては、生活者になること自体に、努力が必要とされるであろう。
最近、北京のいくつかの大学の教授たちが、新聞紙上で「ガソリンの消費税を値上げせよ」と提案した。地球上で量的に限られている石油、汚染されている空気、混雑している道路、これらすべての状況に、消費税の値上げを通じて注目してほしい、と。
去年の大地震をきっかけに、中国人のこのような生活感覚は鍛えられてきた、といえる。個人の生活から社会問題まで、どの位相でも日常的な戦いが積み重ねられており、生活の場がつねに作り直されている。官僚の腐敗、貧富の差、食料の安全、公共生活の質などなど、「生活」こそが政治状況にコミットしているのだ。そして、そのコミットの方向性は、決して「反体制」という単純なものではない。社会環境を改造するためには、すべての人間の責任意識を喚起することが差し迫った課題となる。
何年か前に、飛行機の中で、私は隣の日本人男性とおしゃべりをした。彼は中国旅行から帰国する途中だったのだが、興奮しながら自分の見聞を話してくれた。
「中国は非常に活力がありますね。でもあなた方には言論の自由がない」。あれこれと話したあと、彼はこのように総括をしたのだ。
この無邪気な議論に反論する気にはならなかった。しかしこの話は私にとって忘れがたい貴重なモチーフの一つとなった。なぜなら、これほど典型的に「生活者言語の欠如」なるものを体現している事例は他にはない、と思われたからだ。その時の話題からは、およそ言論不自由という結論など出てこようもないのに、おそらく自分の言葉をこしらえるより、メディアで流行した言い方を使ったほうが便利だということだろう。
考えて見れば、「活力があるが、言論の自由がない」という類の思惟(し・い)様式を保持しているのは、日本人だけではない。中国人も同じようだ。この発想の特徴は、「何々があるが、何々がない」という標識によって物事を認識するというところにある。私がここで指摘したいのは、活力と言論の自由がそれぞれにあるか否かではなく、標識としてこの両者を媒介なしに結び付けた途端に、現実的に動いている生活者の努力は抹殺されてしまう、ということなのだ。
たとえば、食材の安全問題は、中国の中でも大きな話題になっている。安全食のために努力している生産者と消費者があり、彼らはともに歪(ゆが)められている生活基盤を正そうとしている。彼らにとっての最大の敵は、利潤優先という資本の論理や一部の官僚の利益だけではなく、消費者の惰性もその障害になっているのだ。コマーシャルの宣伝に引っ張られるような受け身の消費者を、自ら努力して生活状況を改善しようとする生活者に変身させるという努力こそが、「生活を成り立たせる」前提条件なのではないか。今日の中国の中で、もっとも政治性を備えているのは、このような「生活問題」にほかならないのだ。
われわれ東アジアの知的世界の中で、生活者の言語を無視する傾向と、西洋式の「近代」へのコンプレックスとは同じことの両面になっている。生活者は決して「生活する人間」という意味だけに終わらない。生活という社会的な営みの奥には、生活者の政治性や思想性が深々と湛(たた)えられている。ただ、生活者は、いくつかの出来上がった結論に限定されて生きていくわけにはいかない。だからこそ、生活者自前の言語が必要なのだ。その言語を練り上げてはじめて、われわれは発見の目をもつことになる。