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オンラインメディアを批判的に消費したり、協働して作り出したりする方法を私たちがどれだけ身につけ、子供たちに教えることができるのか。そして、この「私たち」のなかに、いったい何人が加われるかが、問われている。
1982年に電話経由でネット接続して以来、私は、ネット上の「仮想共同体(バーチャルコミュニティー)」に参加し、観察を続けてきた。90年代、ウェブマガジンの先駆者である「ホットワイアード」(ワイアード誌のウェブサイト)の立ち上げに加わり、いま、スタンフォード大学などでメディア論を教えている。そんな私の見立てでは、持つものと、持たざるものの違いとは、ハードウエアやソフトウエアの違いや、ウェブにアクセスする経済力があるか否かではない。
現代の最大の不確実性は、我々のうちの何人が、デジタルメディアを効率よく、安全に、市民として、人間として使いこなす技能を学べるかどうかだ。違いはリテラシーの問題なのだ。そして、この能力には、使いこなしの技能とともに、行動規範=ルールが含まれる。
この春学期の最初の授業で、私は、スクリーンに「アテンション(注目)」という言葉を映しだし、生徒たちにこう宣言した。
授業は、きみたちが携帯電話の電源を切り、ノートパソコンを閉じ、60秒間、目を閉じることから始めます。SNS内の友だちやゲームなど、外からの雑音を遮断したとき、あなたの心にどんなことが思い浮かぶか、1分間、観察してください。
誘惑の種がいくつもあるなか、集中するとはどういうことか、身をもって感じてもらうのだ。
ノートパソコンや携帯電話をつけっぱなしでは自分自身をコントロールできないことに、気づいてもらうわけだ。
この手法を取り入れる以前は、ほとんどの生徒たちが、私――すなわち教師――を見ようともしないことが何度も繰り返されていた。そこで、あるとき、わたしは「私の視点」から見た授業中のクラス光景をビデオカメラに収めてみることにした。

目の前のパソコンの画面ばかり見ている生徒たちでいっぱいの教室で教壇にたつと、いったいどんな気持ちになるのか。ビデオを編集し、オンライン上に公開し、生徒たちに見せた。教室のスクリーンにビデオを映しだし、何人かの生徒には、ウェブ経由でパソコン画面上で見せた。
すると、生徒たちはみな、パソコンの電源をいったん落とせという私の指示に従った。次に、今度はノートパソコンを開けさせて、クラス内での生の議論と同時に、オンライン上で同じテーマでチャットするよう求めた。
すると、オンライン上のチャット(これは教室のスクリーンにも映しだされる)も、教室内の顔つき合わせた議論も、盛り上がらなくなった。どうしてか、オンラインで生徒にたずねると、一度にいくつものことをしては集中できないと打ち明けはじめた。
また、一度に3人の生徒だけパソコンを開け、クラス全員のためにノートをとるようにしたこともある。そして、その後は、いったんノートパソコンを閉じ、電源を数分間切るというルールを守るなら、クラスの誰もがノートパソコンを使っていいことにし、現在の方法にたどりついた。
「心配り」と「ルール」とが集中力を会得する際のカギとなる。そのことを、生徒は教えてくれた。
このエピソードのポイントは、私、つまり教師一般に、注意を向けさせるにはどうするかではない。「集中力」とは、自ら学び、形作り、実践すべきスキル(技能)だと学んでもらうことにある。もし自身が進歩したいなら、スキルを進化させねばならないのだ。
半導体チップやネット技術で、私たちの心や頭脳は拡張可能で、人々に新たな力を付与するといわれてきた。しかし、「いつでも電源オン」時代の入り口段階のいまでさえ、そして私のような技術信奉派でさえ、メンタルコントロールのスキルを身につけないままでは、ネットがもたらす新しい力は、私たちをミスリードし、あやつり、心を迷わすものになる。