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「野獣」という名の列車をたどって

失敗した開発援助編Ⅱ エルサルバドルの「失われた20年」 希望の港が沈んだ

起爆剤のはずの港開発が「不発」に終わり、中米エルサルバドルは今なお「負の連鎖」からの脱出口を見いだせていない。「失われた20年」の時代の歩みを振り返ると、成長のチャンスをつかみかけて焦った途上国が、グローバル化の荒波にもまれて沈んでいく軌跡が浮かんだ。(GLOBE記者 村山祐介)


「Abema x GLOBE」の特集番組「『野獣』という名の列車をたどって」より

■1990年代 和平合意で復興景気

右派政権と左派ゲリラによる激しい内戦が終わったのは1992年。12年に及んだ戦闘で荒廃した貧しい東部地域の復興が急務となるなか、東部ラウニオンにある老朽化した旧クツコ港を埋め立てて、本格的なコンテナ港に再生する計画が水面下で動き出した。



1995年1月当時の旧クツコ港=村山祐介撮影



経済界に支えられた右派政権は小さい政府を志向して市場機能を重視し、自由化を進めた。復興景気のなか、エルサル経済は6~7%台の高成長を遂げ、唯一の国際貿易港アカフトラ港はいずれ限界に近づくと思われていた。シンクタンクのフサデス代表ミゲル・シマン(54)は、「内戦が終わり、経済成長を妨げてきたよろいを脱ぎ捨て、熱気に満ちていた」と振り返る。国際協力機構(JICA)は97年、ラウニオン港の調査に正式に着手した。






だが、成長は長続きしなかった。安い輸入農産物の流入で、地方の雇用を担う農業は衰退した。在米移民の家族送金で輸入したモノを買う消費文化が定着し、カネはショッピングモール開発などサービス業に集中した。雇用の裾野を広げる製造業は育たず、ヒトは仕事を求めて米国に流出した。




■2000年代前半 希望と熱狂の最重要案件

2001年、6年ぶりにエルサルを再訪した私は、熱気はないが前には進んでいる、と感じた。しかし直後の2度の大震災で暗転した。犠牲者は計1259人に上り、約160万人が被災した。道路などのインフラは再びズタズタになり、大勢が移民となって米国に逃れた。



死者400人を越す土砂崩れがあった住宅地=2001年1月、首都サンサルバドル郊外、村山祐介撮影



ラウニオン港開発への112億円の円借款が調印されたのは、この年の10月だった。内戦と大震災からの復興にもがくエルサル政府は最重要案件と位置づけ、エルサルを「中米のシンガポールに」と政府関係者や経済学者らが相次いでシンガポールに視察に行くなど、高揚感が広がった。




地元ラウニオンも沸いた。

商工会議所会頭エドウィン・マカイ(55)は「大きな希望として地元の企業も人々も熱狂しました」と振り返る。






郊外では外国人需要を当て込んだ高級住宅地の造成が始まり、賃貸収入を狙った地元企業や在米移民の投資で完売した。マカイが建てたオフィスビルも、旅行会社や弁護士事務所などで10部屋が満室になった。JICAなどの支援で技術者を養成する専門学校MEGATECラウニオン校が06年に開校し、開港に備えて港の運営や物流税関の学科がつくられた。



MEGATECラウニオン校




■2000年代半ば 嵐の中の船出

大震災の影響もあって成長率1-2%台に低迷していた経済は、2000年代半ばから世界的な景気拡大とともに3%台後半に持ち直した。パナマ運河の拡幅工事を控えて船舶の大型化が進む中、空港・港湾自治委員会は05年、ラウニオン港の埠頭の水深を14メートルから15メートルにする設計変更を決めた。工事費を捻出するために大型クレーンを事業から外す荒業だったが、いずれ運営を任せる民間企業が手配すればよい、と強気を通した。



大型クレーンのないラウニオン港



しかし、すぐに世界経済はきしみ始め、やがて激震になった。

07年からの世界的な食料、エネルギー価格の高騰がエルサルを直撃し、貧困層の生活が困窮した。08年9月にリーマンショックが起き、世界経済は大混乱に陥った。貨物需要が急減するなか、この年の12月、港は完成した。




政治状況も一変した。09年3月の大統領選で左派のマウリシオ・フネス氏が当選し、6月に20年ぶりに政権交代が実現した。大きな政府を志向する左派政権の誕生で、あらゆる政策の見直しが始まった。前政権の看板案件だった港をどうするかも揺らぎ、委員会が「暫定的」に直営して10年6月に開港した。




■2010年代 問題続出で沈没

事業費が83億円もオーバーするなか大型クレーンをそろえる余裕はなく、想定の4倍もの泥土が航路に流れ込んで水深を維持できないことも分かった。12年末、コンテナ輸送を取り扱う海運会社が撤退。港の運営を民間委託するための入札にも、手を挙げた企業はなかった。






港の頓挫が明らかになると、地元の期待も急速にしぼんだ。

工事関係者も企業も去り、高級住宅地は7割が空き家になって、銀行による差し押さも相次ぎ、価格は3分の1まで下がった。



空き家が目立つ高級住宅街



マカイが建てたオフィスビルも7割が空室だ。港の運営などを学んだ専門学校の卒業生たちは行き場を失い、マカイは「全く無関係の仕事に就かざるを得なくなりました」と話す。






東部開発担当の官房副長官アルベルト・エンリケス(69)は失敗の要因として、「一足飛びにシンガポールになろうとして、現実に沿って段階的に開発する考えがなかったのが一番大きかったと思います」と振り返った。




■2018年 自立の道を模索

政府は18年1月、入札の不調を踏まえて、港の運営を民間に委託するための法律を改正し、運営権の期間を30年から50年に伸ばすなど企業側の要望を反映させた。8月に入札を公示し、年内にも運営業者を決める日程が動き出す見通しだ。エンリケスは「まずは船への燃料供給や修理などのサービス提供から始めて、その次はホンジュラスとの陸路の物流を進め、中長期的には産業を育成したい」と段階的に進める考えを示す。投資を呼び込むため経済特区をつくることも検討するという。




地元ラウニオンの商工会議所は、観光客を呼び込もうとボランティアを募り、シーフード祭りや若者向けパーティー、女性起業家の支援イベントなどを次々に企画している。湾を囲む周辺国の商工会議所と一緒に、地域活性化に取り組む会議も開くつもりだ。マカイは言った。「港をこれ以上、待ち続けるわけにはいきません」


■失敗した開発援助編Ⅰ ODA112億円かけ5年でコンテナ1つ エルサルバドルの港はこちら


■失敗した開発援助編Ⅲ 日本ODAの港が失敗したわけ 関係者に聞くはこちら


■失敗した開発援助編 番外編 記者が見たラウニオン港の源流 23年前の旅日記からはこちら


■特集本編[Part1]はじけた夢 「一足飛びにシンガポールになろうとした」はこちら

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