1. HOME
  2. World Now
  3. 記者が見たラウニオン港の源流 23年前の旅日記から

記者が見たラウニオン港の源流 23年前の旅日記から

Re:search 歩く・考える 更新日: 公開日:

1995年1月10日(火) 「日本と一緒に港をつくる」

「ジャパニーズorチャイニーズ?」
昼過ぎ、首都サンサルバドル中心部の安宿を出た路上で、すれ違いざまに英語で呼び止められた。むっとした私が「ジャパニーズ」とだけ反応すると、年配の男性は「いま日本政府と仕事をしているんだ」と手にしていた報告書を取り出した。表紙にはJICA(国際協力機構)の文字があった。「日本と一緒に港をつくる。興味あるか?」。いぶかしがりつつも、近くのカフェで話をすることになった。


リカルド・エスコトという名のこの男性は、地元のエコノミストとして、JICAとエルサル政府の橋渡しをしている、と言った。商社への就職を控え、国際協力に関心があった私は、彼の話に引き込まれた。2時間話し込んだうえ、彼の自宅に行って関連資料を見せてもらった。「興味あるなら、一緒に行くか」。4日後、彼の出張に同行させてもらうことになった。

1995年1月14日(土) 廃墟の旧港

早朝、一緒に長距離バスで東部ラウニオンに向かった。リカルドは何かと人に教えたがるタイプで、絶え間なく話しかけてきた。うんざりした私は、隙を見て寝たふりしてやり過ごした。ラウニオン市内の海辺の食堂でランチをとった後、路線バスでクツコ港へ。守衛に掛け合って小さな門から奥に入った。





さびれている、とは聞いていたが、実際には廃虚としかいいようがなかった。裏門かと思ったのは正門で、倉庫の壁は朽ちていた。タイヤがなく、ガラスは割れた車があちこちに放置されていた。これがこの国第2の港なのか、とあぜんとした。荷物を管理室に預け、埠頭に向かった。

といっても、線路が敷かれた桟橋が一本、海に突き出ているだけだった。

奥には大きな倉庫があった。

中はがらんとしていた。

この地がリカルドの言うように、南北アメリカ大陸と太平洋を結ぶ貿易の拠点になるなんて、とても想像できなかった。「今日は土曜日だから」、「船が来るのは数週間に一回かな」。質問するごとにリカルドの言葉はトーンダウンしていく。しかし、最後に反撃を食った。「君はエルサル人に何が欲しいか聞いたことがあるか」。首を振る私に彼は言った。「答えは、お金か仕事のどちらかだ。私たちには働く能力も意志もあるが、仕事がない。だから日本に期待しているのだ」


管理室に戻ってしばらくすると、白い軍服を着た中級将校と薄汚れたシャツを着た男性が迎えに来た。ピックアップトラックは海軍基地の敷地に入り、白い平屋の前で止まった。基地トップの部屋に通されると、そこだけはクーラーが利いていた。リカルドが地図や資料を見せながら、港の再建計画を説明していく。かつて中央銀行に勤務し、外国政府に援助を求める役回りだったと言うだけあって、板についている。スペイン語があまり分からない私は最後に握手だけして部屋を出た。ウエストポーチを忘れたことに気づいて慌てて部屋に戻ると、「最も安全な場所で幸運だったな」と笑われた。

リカルドが向かった軍のバーは、窓の外に海が広がっていた。酔客だったカルロスという従軍医師は、米国に留学していたころの日本人ガールフレンドの思い出話を語ってくれた。ビールを2本飲んだ後、やり手のビジネスウーマンというリカルドの友人宅に場所を移して、中庭でまたビール。レストランでシーフードをごちそうになった後、港の敷地内にある豪華なペンション風のVIP用宿泊施設に泊めてもらえることになった。広い窓があるリビングに仕事部屋、ツインベッドの寝室、バスルーム。キッチンには大きな冷蔵庫が二つあった。そこでもリカルドによる貿易実務のレクチャーが始まった。タフすぎる家庭教師に猛特訓を受けているようだった。

1995年1月15日(日) 脱帽の情熱と体力

翌朝、リカルドに起こされて桟橋に日の出を見に行った。あいにく曇っていて朝日は見ることができなかったが、ひんやりした空気が心地良かった。豆、卵、サワークリーム、手作りチーズ、コーヒーの朝食。キッチンには鶏が、庭には七面鳥がうろうろしてにぎやかだった。しばらくして、赤いポロシャツ姿の品のある老人が迎えに来た。港の責任者だという彼の車で海軍基地に再び向かうと、昨日と同じ白い軍服の中級将校が迎えてくれた。


埠頭に係留されていた軍の小型クルーザーでフォンセカ湾の海上に出た。クツコ港を通り過ぎ、島と本土の海峡を抜け、小さい島々を一周した。

空は晴れていて、風が気持ちよかった。Tシャツを脱いで、日焼けしながら海を眺めた。

この海が太平洋を挟んで日本までつながっている。いつかこの港にも、日本から船が来るのかもしれない。そう思うと、胸が躍った。


帰途、昨夜のレストランで近くにいた欧州系の男女4人が乗ったクルーザーとすれ違った。船を止め、言葉を交わした。若いヒッピーっぽい見かけだったが、軍のクルーザーに乗っていた。「これから島のビーチでのんびりするんだけど、来ないか?」。そう誘われた私はリカルドをちらっと見やった。乗り気ではない雰囲気だった。お礼を言って別れた。


リカルドはその後、「彼らは英国とフランスの大使館員で、投資案件を探しているんだ」と教えてくれた。「それならなおさら、港の開発計画の話をしたらよかったのに」と私が言うと、彼は「この案件は技術と資本のバランスがとれた日本とやりたい。だから、彼らにかき回されたくない」ときっぱりと言った。まだ水面下で動いている段階なのだという。


私は首をかしげた。日本人とはいえ、どうして、貧乏旅行中のただの学生の私にそんな話をするのか。そう尋ねると、リカルドは言った。「君はずいぶん熱心にメモを取りながら話を聞いていたから、何かあるのではないかと思ったんだ」。お見通しだった。


2時間半のクルーズを終えて埠頭に戻った。車で町を抜け、坂道を上ると、港が一望できる高台に出た。

丘の上の小さな町は、ピンクや黄色、緑といったパステル調に塗られた家が並んでいた。VIP用の宿泊施設に戻ってリカルドと一緒に埠頭を歩くと、心地よい風が吹いていた。日が沈み、空は紫に染まっていった。ここの暮らしも悪くないな、と思った。

食堂で夕食をとっていると、米国の大学に留学していたというインテリの漁師ジェームズと相席になった。リカルドは早速、港再建の意義を語り始めたが、しばらくして「疲れたから先に寝室に戻る」と食堂を出ていった。私はジェームズとしばらく話した後、一緒に埠頭に散歩に出ると、月明かりと薄暗い電灯の下で、リカルドが精悍な10人ほどの船乗りと話し込んでいた。生ぬるい風を浴びながら、やっぱり港の将来について語っていた。

みんなで夜釣りをすることになって、埠頭の先端に移動した。さおはなく、太い糸におもりと餌をつけて投げ込むだけだ。糸の反応を待つ間すら、リカルドは港の再生を説いていた。「いろいろな人と話して港の情報を集めて、再生計画の協力者を増やすのが私の仕事だ」。そう聞かされてはいたものの、23歳だった私があきれるほどの情熱と体力だった。

「クリントン米大統領は任期を全うできると思うか」。インテリ漁師のジェームズにそう詰め寄られて言葉に窮していると、突然、垂らしていた糸が震えた。ジェームズはすかさず釣りの態勢に入る。しばしの格闘の後、30センチはある立派な魚が釣り上がった。

1995年1月16日(月) 別れの時

リカルドの朝は早い。つられて早起きしてシャワーを浴び、荷物をまとめて宿舎を後にした。

埠頭近くの食堂で朝食をとって、港を出て路線バスに乗ってラウニオンの町へ。そして首都サンサルバドル行きの長距離バスに一緒に乗り込んだ。この田園風景はこれからどう変わっていくのだろう。車窓をぼんやりと眺めているうちにバスは地方都市サンミゲルに着いた。


リカルドは首都に戻る。私は南米への旅を続ける。別れの時だ。


リカルドは言った。「君が次に来るときは、今と全く違う立場になっているんだろうな」
「ビジネスライクな関係にはなりたくないね」と私は答えた。
すると、彼は諭すような口調になった。
「人にはみな段階というものがある。それを避けることも、後戻りすることもできない。君は今、その階段を上がるところだ。いつまでも学生のままじゃいられない」
バスが走り出した。
「Hasta la luego!(またね)」。私はそう叫んで飛び降りた。


その日の夜、久しぶりに聞いた短波ラジオが、「日本で大地震、死者数百人の模様」と繰り返していた。阪神大震災だった。


6年が過ぎた2001年1月。商社から新聞記者に転職することになった私は、その前の休みを使ってエルサルを再訪した。リカルドはすでにこの世を去っていた。
この年の1月と2月、計1259人が犠牲になる2度の大震災に見舞われ、私はそのたびにエルサルに戻って、レンタカーで被災地を回った。ホームページをつくって、その様子を伝えた。この年の10月、日本政府は旧クツコ港を埋め立てて、国際貿易港・ラウニオン港に生まれ変えさせる計画への円借款供与を決めた。


17年後。私は記者になって初めてエルサルを訪れた。中米移民が飛び乗る「野獣」という名の列車をたどった旅の目的地として、ラウニオン港を目指した。