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豊かさのニューノーマル(紙面)

自由を求めすぎると、独裁者が生まれる?!~プラトンに学ぶ「転落」パターン

独裁のスイッチ⑧

ギリシャ・アテネで2011年4月、古代ギリシャの哲学者プラトンとソクラテスの石像がある国立アカデミー前を通り過ぎる男性=ロイター

独裁者はなぜ、なくならないのか。民主主義が十分に機能しないのは、どうしてか。古代ギリシャの哲学者プラトンも、この問題を追い続けました。2400年前のその「知」には、現代に通じる深い教えが詰まっています。早稲田大学の豊永郁子教授(政治学)に、読み解いてもらいました。(構成・GLOBE記者 玉川透)


――プラトン(紀元前427年~前347年)は著書『国家』(上、下・岩波文庫、邦訳・藤沢令夫)の第8巻で、民主制からどのように独裁政治に転げ落ちるか、その道筋について考察していますね。


プラトンの『国家』は、独裁者に憧れがちな若者に「独裁者は不幸だ。独裁制はよくない」と説得しようとしている書でもあるのです。私自身も大学の授業で、「独裁と民主主義とどっちがいい?」という質問を学生に投げかけると、独裁制の人気の高さに驚くことがしばしばでした。プラトンの苦労が少しわかります。

ちなみに、同じ一人支配の政治体制には、王制がありますが、王は法や慣習にがんじがらめ。王と競合する貴族などの対抗勢力と共存しなければなりません。これに対して、法や慣習を無視して何事にも思いのままにできる、政敵もすぐに滅ぼしてしまうのでいないとされるのが、独裁者です。

奈良県立奈良高校の敷地内に立つプラトン像=2014年1月、奈良市、栗田優美撮影

――世界では今、「強権的な指導者」が続々と誕生して存在感を強めています。一方で、民主主義への幻滅が広がっているという人もいます。


民主主義の形勢はたしかに悪いですね。国際NGO「フリーダムハウス」(2017年版)の報告書(原文はこちら)からも、それが見て取れます。調査した195カ国のうち、民主主義国とほぼ同義の「自由な国」と見なされたのは87カ国(45%)。一方、59カ国(30%)は「部分的に自由」、49カ国(25%)が「自由がない」とされました。「自由な国」の割合は過去10年間、減り続けています。国ごとに自由の度合いの変化を見ると、かつてはもっぱら独裁国家で、悪いものがさらに悪化するというケースが中心だったのに、最近は、欧米諸国など「民主主義が確立されている国」の多くで自由度が落ちています。


報告書は、現在ターニング・ポイントにさしかかっている「警戒が必要な国」として、10カ国を挙げています。その中には、デンマーク、そして米国といった国が含まれています。


これらの結果からも、民主主義がすでに確立されている国について、民主主義の後退や独裁への転落の可能性を考え、その兆候をとらえることは、今日的にとても重要なことなのでしょう。ただ、民主主義が限界にきたのかといえば、そうではないと思います。民主主義から最悪の政治体制である「独裁」に陥ってしまう典型的なパターンがあり、それは時代を超えて変わらないと思います。


プラトンは『国家』の中で、彼が見いだしたパターンを示しています。不思議ですが、過去のいろいろな革命や政変、現代にも当てはめて読むことができます。プラトンの議論をなぞってみると、まず「民主制国家が善と規定するところのもの」は「自由」である、と彼は説きます。そして、この自由への「過度の」「あくことなき」「他のことを顧みない」欲求こそが、「民主制を崩壊させる」と言うのです。


――自由を追い求めた結果、欲望のとりこになって、体を壊してしまうのは、一人の個人としては分かりますが、国家では、どうして自由がいけないのですか。まして、それが独裁を招いてしまうなんて。


プラトンは自由そのものを否定しているわけではありません。自由への過度の欲求を戒めているのです。彼の描く民主制国家では、誰もが何でも好きなことをしてよく、好きなように生きられます。これはまさに、現代の民主主義社会のありよう。彼は、こうした「民主制の国家が自由を渇望したあげく、たまたまたちのよくない酌人たちを指導者に得たために、必要以上に混じりけのない強い自由の酒に酔わされるとき」に問題が生じると言います。


つまり、自由の風潮がそのきわみに至り、社会のあらゆるところに無政府状態がはびこる。民衆は統治の任にある人を疎ましく思うようになり、民衆指導者がこれをあおる。その民衆指導者の中から、独裁者が生まれてくる、というのです。プラトンは、こうした民衆指導者は、彼が「雄蜂族」と呼ぶ、ならず者たちの間から出てくると言います。


――「雄蜂」とは、ブンブンと飛ぶ、あのミツバチのことですか?

パリのミツバチ=2017年7月、青田秀樹撮影

そうです。自然界では、毒針のある働きバチと違って、女王バチとの交尾の瞬間のためだけに生きる雄バチは、体は大きく飛ぶのも早いが、針は持たず働きもしない。一見、厄介な怠け者です。


プラトンは、政治体制の変化を語るとき、民主制に移行する前には、金持ちが支配する「寡頭制」があると説明しています。そして、そんな寡頭制のもとで出現するならず者たちのことを「雄蜂族」と呼ぶのです。彼らは怠惰と放縦の産物ですが、その大多数は自然界の雄バチと同様、毒針は持たず、大したことはできません。しかし、ときに才覚があり、大胆で、毒針を持つ「雄蜂」が現れ、針のない「雄蜂」たちを従える、と。


この「雄蜂族」について、プラトンは「寡頭制の国では、この種族は尊敬されず、勢力も強くないが、民主制のもとでは国の先頭にたつ指導者層の多くは、まさにこの種族である」と言います。さらに、そもそも民主制の国家とは「政治活動をする者が、どのような仕事や生き方をしてきた人であろうと、そんなことはいっこうに気にも留められず、ただ大衆に好意をもっていると言いさえすれば、それだけで尊敬されるお国柄なのだ」とも。彼に言わせれば、民主制国家の政治家の多くはならず者というわけです。なんだか説得力があります。


そして、プラトンいわく、「雄蜂族」の中から、民衆に担ぎ上げられて、将来の独裁者が権力の座につく。その際、プラトンは「民衆」について、面白いことを言っています。「この階層は最も多数を占め、いったん結集されると、最強の勢力になる。しかし、蜜の分け前にあずかるのでなければ、あまり集まろうとはしない」と。そこで、先頭に立つ指導者たちは、持てる人々から財産を取り上げ、その大部分は自分で着服しながら、残りを民衆に分配するというのです。つまり、よく信じられているように、指導者はカリスマだけで民衆に担ぎ上げられるのではなく、そこにはいつも甘い蜜がある、ということです。たとえば、ヒトラーのナチスがユダヤ人を徹底的に収奪し、多くの人がそこから利得を得たことが思い起こされます。


権力を握った指導者についても、プラトンはこう指摘しています。「初めの何日かは、誰にもでも優しくほほ笑みかけて、自分が独裁者であることを否定するだけでなく、私的にも公的にもたくさんのことを約束する」と。しかし、その後は「絶えず何らかの戦争を引き起こす」と、プラトンは言います。それは「民衆が指導者を必要とする状態におくため」なのです。


こうした独裁者誕生のパターンはよく覚えておくといいでしょう。さらに、独裁者の下では戦争が起こること、また粛清によって有能な人材がいなくなることも、知っておくべきことです。すべてプラトンの、2400年前のアドバイスです。今日にも通用するものです。


――しかし、自由に価値をおく民主制が、自由を奪う独裁者を生み出してしまうというのは、なんとも皮肉な話ですね。

ドイツ西部コブレンツで2017年1月、欧州の右翼ポピュリズム政党が党首会議を開催。活動家たちが「独裁者」の立て看板を掲げて抗議した=ロイター


言うなれば、「民主制のパラドックス」ですね。民主制による自由の追求のたがが外れて、「何でもあり」の民主制になるとき、物事に優劣をつけない、様々な行為や欲求のどれにもダメを出さない寛容さをもってしまう。つまり、指導的政治家がどんなに問題のある人物であっても、どんな言動をしても、タブーやルール、前例を簡単に覆して見せても、受け入れてしまう。それが独裁傾向をもつリーダーの台頭を許してしまう。これはまさに私たちが今(たとえば米国で、あるいは日本で)、目の当たりにしていることなのかもしれません。民主制は寛大ですが、スキがある。ぎょっとするような言動の人物には、やはり気をつけたほうがいい、ということです。


しかし、民主制が必ず独裁に転落するというわけではありません。そうなるプロセスのひとつひとつを肝に銘じて用心していれば、踏みとどまる道はあると思います。プラトンの考えた落としどころも、その辺りだったのではないでしょうか。


また、近現代史をふり返ると、民主主義の「波」は、寄せては引きを繰り返してきました。だから、今は引いていても、また寄せることが予想されます。でも、それは自動的に起きるものではありません。誰かの民主主義を実現する意志、つまり意識的な努力が必要です。


プラトンが描いたような民主主義から独裁への転落の可能性は、議院内閣制にも大統領制にも、直接民主制にも、同じようにあります。どれも粗悪な政治家たち、独裁者と化すような民衆指導者を宿しうるからです。プラトンが言う「雄蜂族」、つまり独裁者になりそうな人物を権力の座につけてはならない。彼が究極的に言いたいのは、そういうことだと思います。


――そうならないために、どうすればいいのでしょう?


一番のサポートになるのは、教育だと思います。そもそも独裁制や独裁者について何も知らなければ、どうしようもありません。教育は体制を守るし、体制を揺るがす。次の世代を前の世代と同じように育てることで、世代交代にもかかわらず社会が同一性を保つことを保障します。一方で、新しい考え方や行動パターンを次の世代に与えることで、世代交代によって社会が一変するように仕掛けることもできます。


では、民主主義が曲がり角に来ている今、独裁という「最悪の国制」に陥らないために、人々の頭に民主主義のイデオロギーをたたき込むのが教育の役割なのか。それは違います。イデオロギー教育は、思考しない状態を生み出してしまう。民主主義は素晴らしい、独裁はけしからんとすり込むのでは、厄介な民主制を保持できません。また、コロリと他のイデオロギーに転向するということも簡単に起こりえます。


それでは、どうすればいいのか。民主主義の概念の成り立ちを学んだうえで、民主制がどういうものか、独裁下ではどういうことが起きるのか、いろいろな事例を詳しく学べるといいと思います。そうすることで、民主主義の危機のサインも、おのずと察知できるようになるでしょう。独裁者になりそうな人物の見分け方も身につけなくてはなりません。

早稲田大学の豊永郁子教授=山本和生撮影

ただし、学ぶのには時間がかかります。だからこそ、教育期間の長い国々の民主主義のバイアビリティー(生存能力)を、私はわりと信頼しています。翻って日本に関して言えば、先進大国である民主制国家としては、教育レベルが低すぎる。エリート教育への憧ればかりが聞こえる一方で、なぜいまだに高校まで義務教育ではないのでしょうか。また、学校では受験競争が教育の質を制約しています。詰め込み教育では、せいぜい専制君主の書記(昔は奴隷です)レベルの人材しか生まれません。プラトンは「無理に強いられた学習というものは、何ひとつ魂の中に残りはしない」と述べています。子供を学習させる際には、「むしろ自由に遊ばせる形をとらなければならない」とも。エリートを作るための教育論で有名なプラトンですが、意外にゆとり教育派だったのかもしれませんね。


「民主主義は最悪の政治形態だ、と言われてきた。これまで時折試されてきた他の一切の統治形態を除いては」。元英国首相チャーチルの有名な言葉です。ここには、独裁をはじめ他のより悪い体制に陥らないために、その欠点にもかかわらず、民主制に踏みとどまる必要があるという考え方が示されています。私もその通りだと思います。


■豊永 郁子(とよなが・いくこ)

早稲田大学教授。専門は政治学。著書に『新版 サッチャリズムの世紀』『新保守主義の作用』など。朝日新聞のオピ面「政治季評」に随時連載。


■プラトン(紀元前427~前347) 古代ギリシャの哲学者。師であったソクラテスの死により、アテネの政治に失望。諸国遍歴ののち、今日の高等教育・研究機関の祖となるアカデメイアを創設。現象世界の背後に思惟によって到達できるイデア(真実在)の世界があると説いた。代表作は『ソクラテスの弁明』『国家』




GLOBE「豊かさのニューノーマル」の「独裁のスイッチ」編。次回は、『帝国』『マルチチュード』などの著作で知られるイタリアの政治哲学者、アントニオ・ネグリ氏にインタビュー。現代ヨーロッパを代表する左派知識人に、「強権的な指導者」の時代と、ポスト民主主義の形について聞きました。

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