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豊かさのニューノーマル

お金をもらうと怠けるって本当? ベーシックインカム実験中のフィンランドを訪ねました

何もしなくても生活に最低限必要なお金をもらえたら、人は働かなくなるのだろうか。ベーシックインカムが話題になると、必ずといっていいほどこの点で賛否が分かれる。フィンランドが今年1月から始めた2年間の社会実験は、その答えをついにもたらしてくれるかもしれない。現地で取材してきました。(GLOBE記者 宋光祐)

子どもたちと自宅で遊ぶユハ・ヤルビネン。ベーシックインカム実験で受給者の一人に選ばれた=宋光祐撮影


ヘルシンキから北へ300キロ余り離れた町クリッカで暮らすユハ・ヤルビネン(39)を訪ねた。ヤルビネンは、フィンランドで始まったベーシックインカムの社会実験で、対象となる約18万人の失業者のなかから参加者に選ばれた2000人の1人だ。失業手当の代わりに毎月560ユーロ(約7万4000円)の現金を、今年1月からベーシックインカムとして受け取っている。


実はベーシックインカムの方が、失業手当より金額が少し少ない。それでもヤルビネンは、受給者の一人に選ばれた通知をフィンランド社会保険庁から昨年12月29日に受け取った時の気持ちを、興奮気味に振り返る。「新しい人生が始まったみたいだったよ」


失業手当と違い、ベーシックインカムには受給の条件が何もない。職探しをする必要はないし、仮に働いて収入を得ても、減額されることなくもらい続けることができる。

ヤルビネンが製作している太鼓=宋光祐撮影

ヤルビネンは看護師の妻とともに、6人の子どもを育てている。以前は木材の窓枠をつくる会社を営んでいたが、目の回るような忙しさに加え、不動産のトラブルなども重なり、7年前に精神的に参って働けなくなった。会社も破綻した。以来、失業手当を受け取ってきたが、職業紹介所に通っては担当者に就活ぶりをチェックされ、「奴隷のようだ」と感じていたという。ここ数年は民俗調デザインの木製の太鼓を作って知人たちに売ってきたが、失業手当を打ち切られると生活できなくなるため、おおっぴらな商売はできなかった。


自分としては、望まないことをやりたくないだけ。意欲はあるのに働けない。そんなジレンマを解消し、もう一度挑戦できる機会をくれたのがベーシックインカムだ、とヤルビネンは言う。実験が続く2年間で、太鼓づくりを中心にビジネスを育て、起業家としての土台をつくろうとしている。「いまは自分のやりたいことができる自由を手に入れて本当に幸せだ。これから働いて収入を増やしていきたい」


ベーシックインカムのアイデアそのものは決して新しくはない。英国の思想家トマス・モアが1516年に『ユートピア』で記したのが最初だとされる。以来、ジョン・スチュアート・ミルやジョージ・バーナード・ショウなど歴史に名を残す思想家が相次ぎ提唱してきた。米国ではニクソン政権が1960年代の終わりに、すべての貧困家庭に無条件に収入を保障する法律を成立させようとしたが、反対に遭い成立しなかった。これまで国として政策に採り入れたケースが出なかったのは、財源の問題のほかに「働かざる者、食うべからず」という伝統的な価値観が立ちはだかってきたからだ。

ベーシックインカム実験の制度設計にかかわったマルクス・カネルヴァ=宋光祐撮影

フィンランドの社会実験の制度設計にかかわったシンクタンクのマルクス・カネルヴァ(38)によると、フィンランドでも1970年代から、名称は違うもののベーシックインカムの議論はあった。50年近く経ってようやく社会実験の段階にこぎつけた今回は、無条件に配られる必要最低限の生活費が失業者に働く気を起こさせるかどうかを見るのが最大の目的だという。カネルヴァは「560ユーロは一カ月の生活費としては足りないが、安定収入が入ることにはなる。そのうえでさらに収入を増やそうと働こうとするか。あるいはリスクのある起業などに挑戦するか、確かめる」と話す。


社会保険庁の研究員ミスカ・シマナイネン(33)は「社会が高齢化していくなかで経済と雇用をどうやって押し上げるか。政府はその方法を見つけることに関心がある」と説明する。ベーシックインカムの支給に予算措置が必要になったとしても、起業などで働く人が増えれば納税者が増え、国にとって結果的に収支はプラスになる、というわけだ。

フィンランド社会保険庁のミスカ・シマナイネン=宋光祐撮影

社会実験を進める背景に、働き方の変化に伴う起業の増加がある。2015年までの国の統計によると、労働者全体では依然としていわゆる正社員が70~80%を占めるものの、起業する人たちは1990年代後半から増えてきている。フィンランドといえば携帯電話で世界シェア首位となったノキアで知られてきたが、同社はスマートフォンの開発に出遅れて衰退、2014年、携帯電話事業をマイクロソフトに売却、大規模なリストラにも踏み切った。「大企業も安泰ではない」といった感覚が若い人たちを中心に広がり、2008年に始まった起業家イベント「Slush(スラッシュ)」は今や世界中から起業家や投資家らを集めるようになった。フィンランドは「起業家の国」になりつつある。(※詳しくは「いまを読む」---ノキアの衰退と福祉政策が生んだフィンランドの起業革命を)


ベーシックインカムへの関心は世界中で高まっている。フィンランドの社会実験には日本や韓国、米国、南米など各国・地域の政府や学者、メディアから問い合わせがきているという。カナダのオンタリオ州は今春から4000人規模の社会実験を始めた。米国ではハワイ州が6月、制度化を目指して作業部会を設ける法案を可決。日本では10月の総選挙で希望の党が公約に掲げた。

ヘルシンキの街並み=宋光祐撮影

豊かなはずの先進国がベーシックインカムに注目する背景には、終わりの見えない低成長や人工知能(AI)、ロボットの台頭で仕事がなくなることへの危機感の高まりがあるのだろう。


無条件にお金がもらえたらみんながみんな、ヤルビネンのように働く意欲を取り戻すかどうかはわからない。でも、働くことへの価値観が変化しつつあるのは間違いない。

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