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感染症との新たな戦い

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最も助けを必要としていたのは誰だったか

エボラ出血熱編2 日本人医師たち



未曽有の大惨事になった西アフリカのエボラ出血熱。現場ではいったい何が起きていたのか。アウトブレイクのさなかに現地入りして支援に当たった日本人医師たちに聞いた。(構成・村山祐介、敬称略)

防護服を着て患者に対応するMSFのスタッフ=2014年4月、ギニア南部ゲケドゥのエボラ出血熱治療センター photo : (c) Sylvain Cherkaoui/Cosmos



●豊島病院感染症内科医長 足立拓也(47)


2014年7月、シエラレオネ東部ケネマのエボラ出血熱治療センターに初めて入ったときのことは、よく覚えています。50人くらいの患者が入院しており、ぐったり横たわっている人、嘔吐や下痢で消耗しきった人、回復してようやく歩けるようになった人など、患者全員が私たちの回診を待っていました。遺体安置所の白い袋が毎日三つ、五つと増えていきました。ひとつの治療施設でこれだけ多くの人が命を落とす病気は見たことがなく、たいへんなことが起きているのはすぐに分かりました。


重症患者の病状進行は速く、かつ嘔吐物や下痢便にウイルスが含まれるため、弱っていく病人を看病する家族や隣人など、助けようと行動を起こした人が次の感染者になるのは、エボラ出血熱の際立った特徴です。一家全滅や、両親を亡くして1人だけ助かった子どもなど、痛ましい事例をいくつも見ました。私も子を持つ親ですので、息を引き取った小さな子どもを見るのはつらいものでした。


医療者も例外ではなく、人員や物資が常に不足する状況で、看護師の感染が相次ぎました。患者として入院した同僚が死にゆくのを見守る看護師が嘆き悲しむ様子は、言葉では尽くせません。職員の感染や落命にもかかわらず、患者を受け入れ続けたケネマの医療者の勇気と苦悩には、医療の原点を見る思いでした。


世界保健機関(WHO)の緊急事態宣言に呼応して様々な国から現地入りした支援者と会いましたが、現地で切望された医療チームを日本から派遣できなかったのは残念でした。日本人の人命はもちろん大切ですが、日本人以外の人命も大切です。最も助けを必要としていたのは誰で、当時の日本のエボラ出血熱対策は誰のためだったのか、謙虚に振り返る必要があると思います。



●国境なき医師団(MSF)日本会長・医師 加藤寛幸(51)


シエラレオネ東部カイラフンにMSFがつくった治療センターで14年11月、約1カ間月支援しました。材木とシートで作られた施設に確定患者が80人ほどいて、ハイリスクエリアでは毎回、医師と看護師2人一組で亡くなった人がいないかを確認するところから仕事を始める状況でした。


防護服での作業は過酷で、1回1時間以内と決められていました。また、針刺し事故は致命的なため、採血や点滴を極力避け、痛み止めや熱冷ましの飲み薬と座薬の使用に努めていました。MSFも精いっぱいでしたが、瀕死の患者がいるのにハイリスクエリアに医療者が誰もいない時間もざらにありました。致死率の高さとスタッフの安全確保の重要性は理解しつつも、目の前の患者を救うこと以上に、感染を広げないことに重きが置かれているように感じ、私自身ずっといら立ちがありました。私は治療のやり過ぎを指摘され、予定より1週間早く帰国することになりました。


エボラが流行した3カ国はもともと保健医療が脆弱で、現地政府に対応を任せるのは酷です。国際社会の後押しが急務だった中で、WHOが非常事態を宣言したのは14年8月。現地で動き始めるまでにもかなり時間がかかっていました。国際社会の対応も、まるで安全保障の一部のように、感染を世界に広げないことのみがゴールだったように思えました。日本でも、エボラ上陸はないとみると、流行は終わったという空気になり、現地にいて非常に腹が立ちました。


先進国の防御を担わされている、と途上国が感じ始めているようにも思え、今後うまく連携できるのかどうか危惧されます。患者の3分の1を一民間団体であるMSFが担ったことも考えられないことで、今後はもっと国際的な取り組みが望まれます。



●国立国際医療研究センター国際感染症対策室医長 加藤康幸(47)


WHO専門家として2回目にリベリアに入った14年8月には、首都モンロビアと国境近くのフォヤ県の両方で患者が急増していました。WHOが緊急事態を宣言した頃です。モンロビアではスラム地区で多くの患者が発生し、接触者の把握は早々にあきらめざるを得ませんでした。医療従事者の感染が起き、院内感染を恐れて、病院は空っぽになりました。


他の病気の患者も治療が受けられず、亡くなる妊婦もいました。たった一つのエボラ治療センターは患者であふれていました。5月とはまったく異なる状況に戸惑い、流行を収束させることができるのか、不安を抱える毎日でした。


エボラは医療や衛生などの基本的なインフラがないところで広がりやすく、家庭でのケアは家族の感染につながります。医療従事者の感染が起きた病棟には、手袋すらなく、水道があるのも手術室くらいでした。リベリア保健省と協力して新しい施設がオープンし、患者を受け入れ始めた頃、帰国の途に就きました。流行地の孤立につながるため渡航制限は不要、というWHOの考えとは逆に、フライトが次々とキャンセルされる中のことでした。


感染症の流行が健康上の問題を超えて危機管理の問題になった時、誰が全体の指揮を取るべきなのか。当時、赤十字やMSFなどの支援団体は自分たちの持ち場で精いっぱいでした。歴史的に関係の深い米国から軍を含めた支援がその後入り、対策に芯が入ったとも聞きます。ただ、患者数はその前から減り始めています。エボラは発病当初からうつる病気ではなく、うつりやすくなるのは嘔吐や下痢が始まる4、5日後から。それまでに患者が入院できれば、感染の連鎖は断ち切れます。そういう知識を住民がちゃんと持って、自ら対策に取り組み始めたのが効いたのだと思います。



●国立感染症研究所感染症疫学センター第一室主任研究官 島田智恵(48)


WHOの要請を受けて、シエラレオネ北部コイナドゥグ県で14年10月から3週間、疫学者としてデータ収集やリスク評価、関係部局との調整に当たりました。交通の便が悪い山岳地帯で、まだ患者が少ない地域だったので、その地域での流行の規模を最小限に抑えることが国際支援チームに期待されていました。


エボラウイルスの感染拡大を防ぐには、患者を早めに見つけて隔離したり、患者と接触した人たちを見極め、潜伏期間内に症状がでるかを調査したりすることが大事です。県のエボラ対策チームが電話などでの発熱患者などの通報を受け、その患者に対面で聞き取りを行ったり、検体やエボラの疑い患者を搬送したり、遺体を埋葬したりします。私は同僚とともにチームに助言や指示をしたり、実際に聞き取り調査を行ったりしました。


疫学班としての最初の困難は、記録の文化がないことでした。たとえば、前日に何件通報があり、そのうち何件検査が行われ、何人の患者が搬送されたのかを誰も正確に把握しておらず、国にも情報が伝えられていない。そこで私たちがノートを買って記録を始めたのが第一歩でした。そのデータや対応の進み具合などを日報としてまとめてWHOに報告し、情報共有のための朝の会議も始めました。


日本は人的貢献が少なかったと言われますが、今の労働環境では貢献したくてもできなかった方々もいました。今回、WHOは1カ月以上滞在し支援できる専門家を求めていました。私は幸運にもそれが可能な職場でしたが、1~3カ月間、本来の仕事を休んで海外へ支援に行くことが可能な職場がどれだけあるでしょうか。日本からの人的貢献を増やすには、人材育成と合わせて、派遣が可能な環境も整える必要があると思います。

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