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Memo03

「近くて近い国へ」サハリンから(ロシアの流儀)


忘れられがちかもしれないが、日本もロシアの隣国だ。領土問題も抱えるが、極東サハリン州と北海道の距離は、最短でわずか40キロあまり。幕末の日露通好条約で、サハリン(樺太)は国境が定められず、先住民や日ロ両国の人々が暮らす「混住の地」だった。いまもこの地を訪れると、日ロはまぎれもなく隣人同士であることが感じられる。


サハリンのロシア人が、日本に親しみを感じていることには、距離もさることながら歴史的な背景がある。日露戦争以降、島の南半分は日本領樺太となり、日本人や朝鮮人が移住。第2次大戦後はソ連に占領され、多くは引き揚げたが、日本国籍を奪われた朝鮮出身の人や、朝鮮人と結婚した女性ら少なからぬ日本人は島に残された。

日本語の授業で、割りばしを使ってみるサハリンの子どもたち=ユジノサハリンスク市 photo : Asakura Takuya

州都ユジノサハリンスク市に住むナースチャ・ナラ(28)は、日系2世の父と、韓国系の母の間に生まれ、ロシア人として育った。9年生(15歳前後)から学校で日本語を始め、大学では日本語を専攻。日本に留学もした。「当時は日本と日本語に夢中だった」。そのまま日本で暮らしていこうかと考えたが、日本の会社で働くようになると、ストレスで体調を崩し、故郷に帰った。いまも日本は大好きで、学校で日本語を教えている。韓国系の男性と結婚。昨年には男の子を授かった。「この子には日本語も、韓国語も、英語も、ぜんぶ話せるようになってほしい」


ナラが勤める学校を含め、日本語は市内30余りの学校のうち、5校で教えられている。英語以外では、韓国語と共に最も人気がある外国語だ。第1ギムナジウム校で日本語を教えるテ・サンチュル(53)は、両親が終戦前からサハリンで暮らす韓国系。大学で日本語を勉強し始めて、小さな時から家で話していた「バケツ」や「キャベツ」が韓国語ではなく日本語だったと初めて知った。両親は戦後も日本へのわだかまりはなく、父親はしばらく和服を着ていた。


戦後の一時期には、日本人や朝鮮人の家庭に、ソ連の政策で新たに入植したロシア人が同居した例も多かった。今回の取材を手伝ってくれたオリガ・ヤコブレワ(44)の母も、戦後すぐの1948年、両親とともにモスクワ郊外からサハリンに移住し、日本人家族と同居していた。日本に対する母の記憶は好意的だ。ベッド代わりの布団は押し入れに片付けられて便利だったことや、日本人の子どもにおやつの豆をもらったことも覚えていた。


戦争で過酷な経験を強いられ、国境が行き来するたび翻弄されてきた島の人々。一方で、人種や民族を超え、肩を寄せ合って生きてきたのも確かだ。そんな経験を受け継いだ若い世代が、これからの日本とロシアを「近くて近い国」にするのかもしれない。


(浅倉拓也)


(文中敬称略、おわり)



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