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オリンピックの魔法がとける日

[Part1]メープルリーフの国際デビューの舞台に

1908年のロンドン大会に参加したカナダ代表団。メープルリーフを胸にあしらったユニホームを初めて着用した Courtesy by Robert K. Barney


1908 ロンドン大会

メープルリーフの国際デビューの舞台に


「五輪と国家」の関係はいま、節目を迎えている。スポーツ界でもグローバル化が進み、自由に国境を超えて国籍を変えるトップレベルの選手が増えているためだ。「スポーツ移民」とも呼ばれる。


国際オリンピック委員会(IOC)は、一度どこかの国の代表だった選手が国籍を変更した場合、3年たてば新しい国の代表となれると五輪憲章で定める。ただし、この3年規定は、各国五輪委や各競技団体との合意などで変更も可能だ。


2016年リオデジャネイロ大会の卓球選手172人のうち、少なくとも44人は中国生まれだった。12年ロンドン大会では、英国代表の1割以上が国籍変更や二重国籍などの選手で、保守系メディアを中心に「プラスチック・ブリッツ(みせかけの英国人)」という造語も生まれた。

マーリーン・オッティ photo : Reuters

国際陸連は昨年、選手の国籍変更を凍結することを決めた。特にケニアやエチオピアなどアフリカの陸上選手が、高い報酬と引き換えに自国を離れ、中東諸国へ国籍変更する現状を問題視したものだ。だが、選手が国籍を変えるのは経済的な動機だけではない。「五輪に出たいが、出身国はレベルが高く競争相手が多くて無理だから」という理由で国境を超えるケースもある。たとえば、女子陸上短距離界のスターだったマーリーン・オッティ。モスクワ大会からシドニー大会まで6回の五輪で出身国ジャマイカを代表し、その後スロベニアへ国籍変更してアテネ大会に出場した。変更前にはすでに経済的な余裕があり、家族は米西海岸に住んでいる。


もし、この先も選手の国籍変更が続けば「国別対抗」の意味が薄れ、五輪は求心力を失うのだろうか。あるいは国籍要因がなくなることで、私の「モヤモヤ感」も消えるだろうか。


■移民国家の多様な国民をも団結させる「五輪マジック」


多文化主義を掲げる移民国家に答えのヒントがあるかもしれないと思い、カナダへ飛んだ。1976年モントリオール、88年カルガリー、2010年バンクーバーと、夏冬あわせて三つの五輪を開催した「五輪大好き国」。さらに、札幌も名乗りを上げている26年冬季大会に、カルガリーが立候補を検討している。


最大都市の東部トロントから雪景色を眺めつつ、列車で約2時間半。ウェスタン・オンタリオ大学には、1989年に世界初の本格的な五輪研究機関としてオープンした「オリンピック研究国際センター」がある。創設者で同大名誉教授のロバート・バーニー(86)を訪ねると、1枚の古い白黒写真を見せてくれた。


「CANADA」と書かれたプラカードの前に並んだ、37人の男性。そろいの白シャツの胸には、大きなメープルリーフ(カエデの葉)のデザインがあしらわれている。時は1908年、ロンドン五輪に参加したカナダ代表団だ。


当時、カナダはまだ英国の自治領だった。開会式の入場行進で掲げた国旗は英国のユニオンジャック付きだったが、「カナダ人としてのアイデンティティーを示そうと、選手団は胸にカナダのシンボルを付けた。これがカエデの国際デビューとなった」という。英帝国会議でカナダが完全な主権国家の地位を獲得したのは、五輪から18年後の1926年。赤いカエデの葉が正式に国旗に決まったのは、さらに後の65年だ。


バーニーは、カナダの愛国心と国造りに最も大きく影響した「スポーツの事件」として、三つを挙げた。最初はもちろん、110年前のロンドン五輪。二つめは72年、宿敵ソ連(当時)との対抗戦のアイスホッケー最終戦で、競り勝った瞬間に「カナダ中が止まった」そうだ。最後は8年前のバンクーバー五輪で、米国、ドイツに次ぐ計26個のメダルを獲得し、国民に「冬季五輪ならカナダ」の自信をもたらしたという。


移民国家の多様な国民をも団結させる「五輪マジック」、恐るべしである。


(文中敬称略)


(「五輪のこれから」に続く)

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