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心の筋トレ

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[Part2]“月影”流グータラ瞑想法



タイ仏教寺院修行編

撮影:太田啓之

翌5日目、私はマインドフルネス流瞑想を再び試みることにした。ただし、プラユキのアドバイスを踏まえ、「姿勢は自由、目は開けたまま。ただ、呼吸に注意を向け続けるだけ」という改良版だ。


もはや外観は、だらしなく座ってグータラしているのと何ら変わらない。まじめな修行者が見たら卒倒するだろう。しかし、この瞑想を始めると一気に呼吸が深まった。


顔を上げると、木々の枝の合間から青空が目に飛び込んでくる。「きれいやなあ」という言葉が、自然に口をついて出た。「タケシにはできるだけのことをしてあげたいなあ。遠慮せずに、必要な時には素直に頼って欲しいなあ」。そんな思いも頭をよぎった。


呼吸は自分の存在の基準点であり、ゆるぎない定点でもある。迷えばそこに帰ってくればいい。私はそう思い定めた。宮本武蔵の「二刀流開眼」ならぬ「オヤジ流超グータラ瞑想法」の開眼である。後輩記者には「要するに、面倒くさくなってグータラしていただけなんですね」とか言われそうだが。



「これが月の光でできる影か」


「本当の安心」はまだまだ遠い。だけど、こういう心の状態にいつでもアクセスできるようになれば、安心して生きることもそう難しくないだろう。「安心」と「孤立」は決して両立しない。安心して生きるには、他人への信頼や愛情が不可欠なのだ。オヤジとしては本当に照れくさいが、そんな実感を得られたひとときだった。


スカトー寺最後の夜、空には半月が浮かび、地面には月の光に照らされた木々や自分自身の影が色濃く映っていた。「これが月の光でできる影か」。私にとってはそれも新鮮な発見だった。


翌日の夜、バンコクに戻った私は久々のビールで酔っぱらい、歓楽街・パッポン通りを、ポン引きに絡まれつつフラフラと歩いていた。街の喧噪は山奥の寺とは別世界。だが、地面を見ると、スカトー寺よりもずっと薄いものの、月光による自分の影がしっかりと映っていた。あの寺での体験はやはり幻ではなく、この文明世界と地続きなのだ。都市の明るさの中でも消えないうすーい“月影”は、そんな確かな実感を与えてくれた。


(太田啓之)

(文中敬称略)


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