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ジョコビッチの涙

[Part1]スポーツと国民国家

ATPツアー・ファイナルではセルビアの旗を手にジョコビッチを応援する観客が見られた Reuters

11月10日、ロンドン。ATPツアー・ファイナルの取材にやってきた。ジョコビッチ、マリー、錦織らトップ8人が顔をそろえる。


エディンバラからの機内でスコットランドの民族衣装を着た一団と一緒になった。翌11日のサッカーW杯・ロシア大会の欧州予選、イングランド対スコットランドの応援に乗り込むサポーターたちだ。


「ロンドンにいるアンディも応援に来るはずさ。スコットランドにとって心強いよ。何しろ世界1位だからね」


同じ英国民でも一番負けたくないライバル。どこか、きょうだい同士の意地の張り合いに似ている。サッカーの代表戦で顕在化する限定的なナショナリズム。日本代表が勝つと、東京・渋谷のスクランブル交差点にレプリカユニホームの若者が繰り出すのも、一体感を共有したい欲求の表れだろう。


一方で、スポーツには偏狭で排他的なナショナリズムが入り込む危険もある。12年ロンドン五輪のサッカー男子3位決定戦。日本に勝って喜んだ韓国の選手が、「独島は我が領土」と書かれたプラカードを掲げた。日本が領有権を主張する竹島だから、外交問題に発展した。


この騒動の翌日、バレーボール女子の3位決定戦で日本が韓国を破って銅メダルを獲得した試合を会場で見届け、気分がスッとする自分に気づいた。敵を作ることで国民を団結させるという国民国家の力学を実体験した気分だった。


ナショナリズム論の古典といわれる『想像の共同体』の中で、ベネディクト・アンダーソンは、「国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体」だと説いた。私自身、日本への帰属意識はあるが、1億2000万の同胞の大多数と、直接の知り合いではない。


もう少しだけ、「国民」について考えたい。英国の歴史家エリック・ホブズボームは、西洋で人々を「国民化」する文化的装置の役割を果たしたのはスポーツとマスメディアだと論じた。スポーツは「国家間闘争の一表現」となり、スポーツ選手は「彼らの想像の共同体を表現するものとなった」と。


……待てよ。だとすると、スポーツメディアの片隅で、五輪の7大会を取材してきた自分は、日本という「国民国家」の強化を後押ししてきたのだろうか?


11月11日、ファイナルに出る8選手の記者会見が開かれ、スイス、日本、フランス、セルビアなど選手の出身国の記者も詰めかけた。私以外の記者もみな、記事の「主語」は自国選手が中心になる。


ただ、私の今回の関心の対象はジョコビッチだ。リオの涙の理由を聞かなくては。何人目かで私の順番が来た。


「あなたがリオ五輪の1回戦で負けたときに号泣した姿はとても印象深い。なぜ、あれほど涙がこぼれたのか。そうさせる五輪の魅力とは何ですか?」


ジョコビッチは言った。「五輪は独特な祭典だ。アスリートとして、祖国を代表して戦うことは、とてつもない名誉だ」


五輪憲章は「(大会は)国家間の競争ではない」とうたうが、国別対抗戦の色彩が強い。愛国心を発露させる装置としての機能が、五輪が世界的興行として成功しつづけてきた要因だろう。


今年の全米オープン開催中、錦織の父、清志と食事をしながら、なぜ五輪が世界的に人気があるのかという話題になったとき、冗談めかして問われた。「康介さんだって、圭が日本人だから応援するんでしょ?」


一瞬、ドキッとした。18歳からの成長の過程を見守ってきたから、彼に自然と情は湧く。世界屈指のストロークは、国籍を度外視して、魅力を感じる。ただ、錦織が日本人選手だから、私の記事が大きく載るのも事実だ。


記事を書く上で、無意識のうちに「(我らの)錦織」という感覚で、日本の読者に投げかける筆致になっていることに気づく。私のツイッターでは、フォロワーの中のテニスファンに向けて、過去のデータを基に錦織が勝利する可能性を探る「安心理論」を発表するのが恒例になっている。かなり応援団に近い。


東西冷戦時代、共産主義圏の国々は五輪メダルの数を国威発揚に利用した。昨今はグローバル化に伴い、先進国で政治への不信が広がる。欧州では移民の大量移入で、国民が帰属意識に敏感になっている。今また、排他的なナショナリズムが蔓延し始めている。


五輪やスポーツが「国力」を誇示し合う代理戦争の舞台となり、アスリートがその駒として利用される風潮は広まってほしくない。記事を書くことでそれに加担したくもない。




もっとも、テニスに関して言えば、心配は無用だろう。観客席での応援は「ニッポン!」「ゴー、チームGB(グレート・ブリテン)」ではなく、「カモン」の後に、「ケイ!」「アンディ!」「ノバク!」と名前を呼ぶのがテニス流だ。


勝者が年末の世界ランキング1位となるジョコビッチとマリーのファイナル決勝はマリーが勝った。11歳から互いを知り、誕生日も1週間しか違わない2人は、健闘をたたえあった。


ジョコビッチの「涙」は、もう乾いている。リオは残念だったが、記者会見では「次のチャンスがあれば、また出たい」と言った。それが33歳で迎える20年東京五輪だ。そこには64年東京五輪で銅メダルを獲得し、次の五輪への重圧から自ら命を絶ったマラソンランナー、円谷幸吉の悲壮感はない。


億万長者であるテニスのスターにとって、五輪は人生のすべてではない。グローバル経済の大海原で、世界的企業からの協賛金が潤沢に集まるテニス界には国家権力の干渉を許す素地もない。


ジョコビッチの涙の正体を探る旅は、「愛国心」というキーワードにたどり着き、スポーツ記者の自分への問いかけとして跳ね返ってきた。愛国心は自然な感情だ。私にもある。ただ、スポーツが国威発揚と結びつき、対立をあおることもある。肩ひじ張らず、適度な熱さで、ナショナリズムと付き合いたい。




稲垣康介(いながき・こうすけ)

1968年生まれ。 五輪、サッカー、テニスの担当歴が長く、錦織圭は2008年ウィンブルドンから取材。準優勝した14年全米も現地で観戦した。昨年、『ダウン・ザ・ライン 錦織圭』(朝日新聞出版)を出版。

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