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コーヒーの村を17年ぶりに訪ねて エチオピア、1998―2016 

Re:search 歩く・考える 更新日: 公開日:
1998年10月31日村の友人たちと エチオピア、オモバコ村にて

■東日本大震災の11日後に

友達リクエストを受け取ったのは、2011年3月22日。東日本大震災から11日後のことだ。

「日本がツナミで大変だと知って、始めたばかりのフェイスブックでサコの名前を検索した。無事が分かってうれしいよ!」

送り主のアミン(37)は、アフリカ東部、エチオピアの農村に暮らす農家の長男だった。

1998年4月、大学4年生だったぼくは、同級生2人とともに大学を1年休学してエチオピアへ渡った。文化人類学の研究のためだ。3人がそれぞれ別々の村や町に住み込んで調査に取り組んだ。

エチオピアはコーヒーの原産地として知られる。首都アディスアベバから西へバスで約400キロ。コーヒー豆の集積地アガロに、先輩研究者のつてで家を借りた。役所で手に入れた地形図を頼りに周辺の村を歩き回り、ぼくが調査地に選んだのがオモバコ村だった。

村には電気もガスも水道もなかった。飲み水は谷間の湧き水をくみ、山で集めたまきを燃やして畑で採った豆を煮込む。昔ながらの暮らしがそこにあった。外の世界とのつながりと言えば、ラジオがいくつかの家にあるくらい。村人たちは日中、誰かの家の居間に集まって細長い座布団の上に車座で座り、世間話に花を咲かせて長い時間を過ごしていた。

アミンは当時20歳。父親を亡くしたばかりで、実家で母親や弟たちの面倒を見ていた。ぼくを泊めてくれて、彼らが話すオロモ語を教えてくれた。

村で英語を話せる人は小学校の教師1人だけだった。アミンもオロモ語しか話せなかったのに、フェイスブックのメッセージは英語で届いた。いつの間に彼は英語を覚えたのだろう?

日本や欧米とは隔絶したアフリカの伝統文化にあこがれて、ぼくは文化人類学を専攻し、エチオピアへ行った。

それから10年余りが過ぎ、まさかアミンとフェイスブックでつながるとは! 村の暮らしは一体どれだけ変わったのか。開発とグローバル化の波がどんなかたちで村に届いているのか。この目で確かめてみたいと思った。

■ビル建設ラッシュのアディスアベバ

 5月15日夜、成田空港から昨年4月に就航したエチオピア航空の直行便に乗って、ぼくは17年ぶりにアディスアベバに向かった。公用語のアムハラ語で「新しい(アディス)花(アベバ)」という名の首都は、昔とまったく違う街になっていた。
 空港から市街地へと続く大通り沿いには、新築や建設中のビルがどこまでも続く。かつて、大通りの真ん中をのんびりと歩いていたヒツジやロバの群れは見当たらず、片側3車線の道路は乗用車であふれ、渋滞まで起きている。
 20階を超える高層ビルを背景に、高架鉄道の上を白と緑で塗り分けられた真新しい車両が行き交う。昨年9月に中国の支援で開業したという「アディスアベバ・ライトレール」だ。その線路は途中で地下へ潜る。終点は地下駅だ。
 17年前、オモバコ村で地下鉄を知らない村人に「日本では、地面の下に穴を掘ってその中を鉄道が走っているんだ」と手ぶりを交えて説明したのを思い出す。「日本はすごい国だな」といたく感心された。
 日本では、エチオピアと言えば、「裸足のランナー」アベベ・ビキラや、1980年代の飢餓の印象が強いかもしれない。それが今や、04年以降の経済成長率が平均年11%という「高度経済成長」を続けている。


 「アフリカの優等生」とも呼ばれる成長ぶりに、外国からの視線も集まっている。
 日本企業の海外進出を支援する「日本貿易振興機構(JETRO)」は今年3月、アディスアベバに新たに事務所を開設した。所長の関隆夫は「着任して1カ月で日本企業15社が視察に来ました。関心の高まりを肌で感じます」と言う。
 JETROによると、エチオピアの製造業の賃金は月50ドル(約5100円)程度。中国の9分の1、カンボジアの半分以下だ。安い人件費が注目を集め、アディスアベバ郊外で14年に稼働を始めた政府直営の工業団地には、韓国、中国、インドなどの衣服メーカーが進出した。
 横浜・元町に本店をもつ革製品の「ヒロキ」は13年、アディスアベバ郊外に自社工場を開設した。日本人3人が常駐し、現地の従業員22人とともに、エチオピア産の羊革でジャケットやシャツを作り、日本に出荷する。
 エチオピア政府は11年、「エチオピア・カイゼン機構」を設立。日本の国際協力機構(JICA)の助言を受け、製造業の合理化(改善)を進める。日本企業に特化した工業団地の建設も計画している。首相特別顧問のアルケベ・オクバイは「我々には石油もダイヤモンドもない。だが、一生懸命に働く人たちと、明確な産業政策がある。25年には中所得国の仲間入りを果たす」と言い切った。
 アディスアベバ大学に、社会学部教授のテセマ・タア(66)を訪ねた。初めてのエチオピア行きを準備していた学生時代、大阪の国立民族学博物館にいて、アムハラ語を教えてくれた恩師だ。「どうだ、エチオピアも変わっただろう。大きなビルがどんどん建っている。でも、この大学の卒業生でも、公務員か教師くらいしか就職先がない。深いところまで取材することだ」。そうアドバイスしてくれた。

■「勝ち組」になった旧友

 真っ白なシャツのボタンを胸元まで開けた都会風のいでたちで「フェイスブック友達」のアミンは現れた。
 アディスアベバから飛行機で西へ1時間。エチオピア西部の中心都市ジンマで、アミンは妻のハリマと一緒にぼくを出迎えてくれた。カフェで砂糖のたっぷり入ったマキアート(ミルク入りのエスプレッソ)を飲みながら、英語で語り合った。
 「明日、アディスアベバの近くの町に出張する。研修で、LANの構築法や、一般公務員向けのパソコン講習のやり方を習うんだ」
 17年前の彼は、柱が斜めに傾いたトタン屋根の家に住んでいた。外の世界への関心と向上心が旺盛だった。「日本に留学したい。何とか協力してもらえないか」としきりに話していた。帰国後も「助けてほしい」とオロモ語で手紙をもらったが、何と答えていいか分からないまま、やりとりが途絶えていた。
 アミンは、通信教育で短大卒業の資格を取り、アディスアベバ大学と並ぶ難関のジンマ大学で図書館助手の職を得た。働きながら夜学に通い、情報技術(IT)の学位も取った。そして今、アガロにある郡のITセンターで「ITスペシャリスト」として働いている。
 月収は4500ブル(約2万2500円)。工場労働者の4倍、一般の公務員や教師の2倍にあたる「高給」だ。職場結婚した妻のハリマの給料も同じくらい。「勝ち組」と言っていい。
 アミンは「テクノ」という見慣れないブランドのスマートフォンを持っていた。香港に本拠を置く携帯電話メーカーで、エチオピアにも工場がある。「iPhoneやサムスンに比べると処理速度は遅いけど、安いんだ」。値段は1台2000ブル(約1万円)。フェイスブックもこのスマホで見ている。
 「教育がおれの人生を変えてくれた。もっともっと勉強したい。機会があれば日本にも留学したい」
 前向きで幸せそうな彼の話しぶりを見て、ぼくはうれしくなった。
 ジンマからミニバスに乗って1時間、ところどころ大きな穴が開いたアスファルトの道を通って、アガロに着いた。
 かつて馬や馬車がのんびりと行き交っていた町の大通りを、以前はなかった三輪タクシーが所狭しと走り回っている。タイの「トゥクトゥク」に似ているが、エチオピアの人たちは「バジャジ」と呼ぶ。名前の由来を調べてみると、インドの自動車メーカーの名前らしい。インドから輸入して爆発的に広まったそうだ。
 17年前、町と周辺の村を結ぶ主要な「交通機関」は馬とロバだった。道は狭くてデコボコで車では到底行けず、ぼくはアガロからオモバコ村まで2時間近く歩いて通った。村の小学校の教師が馬で通勤しているのを見て、ぼくも馬を買おうかと真剣に考えた(たしか1万円くらいだった)。
 荷物を運ぶのはロバの仕事。町外れの湧き水を大きなポリタンクに入れ、ロバの背に載せて運んでいくのが日常の風景だった。それが今や、町の至るところにある売店の軒先に、ペットボトルの水が何十本も積まれている。
 アミンがフェイスブックでぼくを見つけてくれたのをきっかけに、オモバコ村の友人たちと再び「友達」になっていた。その一人がアディス(34)。17年前は村の実家から町の高校に歩いて通う、しっかり者の高校生だった。
 エチオピアに行くと伝えると、「何を持ってきてくれるんだ? おれはソニーの42インチのテレビが欲しい」と返信が来た。大きすぎる、と断ると、「iPhoneの最新モデルでどうだ」ときた。予算オーバーだったので、贈答用のボールペンを買って行った。
 アディスは今、アガロにある郡役場の企業誘致課で働く。「着いたよ」と電話すると、インド製のオートバイで迎えに来た。後ろの席に乗り、「まずはメシを食べよう」と近くの食堂へ。ヒツジ肉の煮込み料理をごちそうしてくれた。ふだん肉を食べることがなかった村の食事を思えば、驚くほどのぜいたくだ。
 町外れの彼の自宅へ。村の実家を出て、妻と2人で暮らしているという。

■湾岸からの仕送りで「豪邸」

 着いてみると立派な一戸建てだった。玄関の外で靴と靴下を脱いで、中に通される。15畳ほどの広さの居間は、天井の高さが3メートルほど。テレビと美しい皿やカップが並ぶ食器棚が目を引く。
 「大きな家じゃないか」と水を向けると、「おれの給料では買えないけどね。姉貴たちの仕送りのおかげだ」とばつが悪そうにアディスは言う。
 一番上の姉は村の実家で母と暮らしているが、2番目の姉はドバイで働き、そのまま結婚してアメリカへ渡った。3番目の姉は今もサウジアラビアにいて、姪の一人はドバイで働いている。
 ここ10年ほど、この地域に住む若い女性の多くが中東の湾岸諸国へ家事労働者として出稼ぎに出ているという。住み込みで働いて給料は月に300~400ドル(約3万600~4万800円)。郡役場で働くアディスの給料は月2000ブル(約1万円)というから、大きな額だ。
 「たしかにおれは17年前より多少は良い暮らしをしているかもしれない。でもそれも姉貴たちのおかげだ。日本ではみんな車を持ってるんだろ? おれだって車が欲しいし、iPhoneだって欲しい。けど、おれの給料じゃ少なすぎる」
 エチオピアの1人あたり国民総所得は、1998年の130ドルから、2014年には550ドルまで4倍に増えた。だが、同じ期間に消費者物価指数は6倍にはね上がっている。
 外食は1人1食300円程度。でも、「ぜいたく品」の値段はさらに高く、トヨタのカローラは20年落ちの中古車でも100万円以上、iPhoneは10万円する。
 翌日以降、道ばたで2度、仕事に向かうアディスとすれ違った。朝から夕方まで働き、日曜日も「イベントがある」と言って出勤していた。「お前の相手をできなくてごめんな。17年前とは違うんだ。食べていくためには仕方ない」とすまなそうに言った。

■広がった道、変わらないコーヒー

 アガロからオモバコ村へと続く道は、かつてはとてもじゃないけど車が走れないような、細いデコボコ道だった。それが今や、ミニバスが2台すれ違うほどに広がっている。17年前を思い出して歩いて村へ向かってみた。行き交う人たちからジロジロと見つめられる。肌の「白い」人間は今も珍しいようだ。
 「Akkam? Fayyaadha?(どうですか、元気ですか?)」とオロモ語であいさつすると、戸惑いながらもニコリと笑ってあいさつを返してくれる。都会と違う温かさは、昔とちっとも変わらない。
 小学生くらいの男の子に「アファワルク先生の家、知ってる?」と聞いて、案内してもらった。
 かつての友人で、小学校教師のアファワルク(42)は、村の大通りに面した自宅の庭で昼下がりの時間をくつろいでいた。
 「サコ! アガロに来たというウワサを聞いて、会いに行こうかと思っていたんだ。すれ違いにならなくてよかった」と喜んでくれた。
 アガロに着いて以来、彼の携帯にも何度か電話したが、一向につながらなかった。バッテリーが切れていたらしい。彼の家にも携帯の電波は届くが、電気は来ていない。「いつもアガロの売店で充電してもらうんだが、このところ忙しくてね」
 村に住み続けている彼に、アガロへの道がいつごろ、どうやって広がったのか尋ねてみた。4年前、村人たちが一人数千ブルずつ出して数百万ブル(1000万円以上に相当)を集め、ブルドーザーを雇ったのだという。
 アファワルクの長女トゥンサイ(9)が生まれたとき、妻のアダネチ(27)が産気づいたのは夜中の3時だった。彼は近所の友人と2人で妻を肩の上に担ぎ、アガロの病院まで歩いて行った。3時間かかり、危うく出産に間に合わないところだった。道が広がったのはその後だ。長男ナホム(2)が生まれたとき、妻は自分で三輪タクシーを呼んで病院へ行った。
 「昔の女性は村の自宅で出産して、何人かに一人は亡くなった。今は呼べば救急車だって来てくれる」と彼は喜ぶ。
 その晩は、トタン屋根と土壁でできたアファワルクの家に泊めてもらった。夕食は、エチオピアの伝統料理インジェラ。テフという穀物の粉を発酵させて、クレープのように薄く焼く。その上に、豆を煮込んで液体状にした「シロ」と呼ばれるソースをかけて食べた。17年前と変わらない素朴な味。穏やかで優しい。
 夜9時過ぎ、アファワルクと妻と2人の子どもが自分たちの寝室に入ると、ぼくは居間に敷いたマットの上で毛布にくるまり、昔と同じ真っ暗闇の中で眠りについた。
 翌日、自分と同い年の農家、リヤド(40)を訪ねた。17年前と同じように村で農業を続ける彼の右手は、握手するとゴツゴツと硬く盛り上がっていた。
 最近の悩みはコーヒーの値段が下がっていることだ。2年前に比べて4割も下がったらしい。「豆の品質は同じなのに、なぜ安くなるのか、さっぱり分からない」と言った。今、コーヒーの最大の生産国は世界のコーヒー豆の3割を作るブラジルだ。為替や天候の変動でブラジル産の価格が上下すれば、世界のコーヒー価格にも影響する。そんな話をリヤドにしても、彼は「うーん」とうなるばかりだ。
 彼の家には、昔と同じように親戚や近所の人たちがしきりに出入りし、居間でのんびりと午後を過ごしていた。彼らはコーヒーが大好きだ。村で採れた豆を丁寧に水で洗い、真っ黒になるまで深煎りして、小さなきねとうすで叩きつぶす。土製のポットでじっくりと煮出してカップに入れて振る舞われるまで、準備を始めてから2時間近くかかる。その間、家族や友人たちとたわいのない会話を楽しむ。ぜいたくな時間だ。

■携帯、英語。膨らむ夢の先に

 「コーヒーの農作業が忙しいのは一年のうち3カ月だけだからな」とリヤドは言う。ぼくは聞いてみた。日本には電気も車もあるけど、朝9時から夜12時過ぎまで働くこともある。どっちの暮らしの方が良い?
 「そりゃ仕事がある方がいいに決まっている」と彼は即答した。「こうしてただ座っているのだって疲れるんだよ。うちにも冷蔵庫が欲しい。町で飲むような冷たいジュースを、うちでも飲んでみたい」。なかば笑いながら冗談めかして言う彼が、町の仕事を本当にしてみたいと考えているかどうか、本音は分からない。ただ、4人いる娘たちの将来について聞くと、こう答えた。
 「できればしっかり勉強して、大学まで出てほしい。教育を生かして少しでも良い仕事を見つけてほしい。エンジニアとかね」
 エチオピア政府によると、90年代に国内に二つしかなかった大学は今、公立大学だけで30を超え、60万人が学んでいる。アミンも、英語を大学で学んだ。
 ただ、中央統計局によると、都市部の20歳代の失業率(2015年)は22%。大学を出ても良い仕事が見つかるとは限らない。
 アガロを去る前日、オモバコ村出身の青年アヌワル(28)に会った。
 「南アフリカで4年暮らして、4カ月前に戻ってきたんだ」と、流暢(りゅうちょう)な英語で自己紹介した。南アフリカへ行ったのは、失望の末だった。難関のジンマ大学を卒業しても就職先が見つからず、バスやトラックの荷台を乗り継いで1カ月かけて大都市ヨハネスブルクにたどり着いた。エチオピア人の友人たちと服を売って暮らした。
 しかし、ヨハネスブルクも天国ではなかった。強盗に拉致され、携帯2台と有り金すべてを奪われた。最も親しかった友人は店番中に銃で撃ち殺された。
 いま、アガロの高校で経済学を教えるアヌワルは、アメリカの移民ビザの抽選に申し込むことも考えている。
 17年ぶりに訪れたコーヒーの村は、道が広がり、携帯の電波は届き、英語を話す人も増えていた。暮らしは少しずつだけど便利になり、村人たちの選択肢や可能性は広がったと思う。勤め人は忙しく働き、親は子どもの教育を思いやる。そんな姿は日本で慌ただしく暮らすぼくらと似てきている。
 ただ、インターネットや海外で働く家族や友人を通じて「外の世界」を知ったことで、これまでにない夢や欲望、そして不満を抱くようにもなっている。格差のある世界の底辺にいることを、思い知らされながらの「成長」だ。
 友人たちが「豊か」になるのはうれしい。でも、コーヒーを2時間かけて楽しむような文化がなくならないでほしいとも思う。
 ぼくはアミンと撮ったツーショット写真を、彼に送った。アミンはそれをフェイスブックに載せてくれた。(文中敬称略)

◆21世紀に急速な経済成長 エチオピアとは 

アフリカ東部にある内陸国。国土は110万平方キロで日本の3倍。2015年の人口は9939万で、アフリカではナイジェリアに次いで多い。オロモ、アムハラ、ティグライなど約80の民族からなる。公用語はアムハラ語。エチオピア正教徒(キリスト教徒)が人口の4割強、イスラム教徒が3割強を占める。
 13世紀に成立したエチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世が1974年に失脚。社会主義政権を経て、91年に現体制になった。昨年の総選挙では与党勢力が全546議席を独占。「反対勢力を弾圧している」との批判もある。
 石油などの天然資源はないが、21世紀に入って農業やサービス産業が伸び、急速な経済成長を続ける。一日1・90ドル未満で暮らす貧困層は、1996年に人口の67・9%を占めたが、2010年には33・5%に半減した。