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カメラ、進化の歴史

LifeStyle 更新日: 公開日:
ツァイスのナッセ氏(左)とモンドン氏=和気真也撮影

ナノから宇宙まで 光操るツァイス

レンズ断面

月面探査のアポロ計画で使われたレンズをつくった老舗レンズメーカー、カールツァイスの本社は、山に囲まれたドイツ南部の町オーバーコッヘンにある。「最先端技術が見たい」と頼むと、半導体製造に必要なステッパーレンズの製造棟に案内してくれた。

ドラム缶大のステンレスの器を、空色の作業着に身を包んだ社員たちが慎重に運んでいた。案内役のディートマール・モンドンは、「わが社の技術の粋を集めたレンズが入っているんだ」と言った。

ステッパーは半導体をつくる際、シリコン製の円板(ウェハー)に回路を焼き付ける装置だ。ツァイスは世界最大手のオランダASML社と組み、中核部品となるレンズ部品をつくっている。約30枚のレンズを組み合わせた部品は、光源から放たれる光をゆがみなくウェハーに送り、超精密な回路を転写する。「カメラのレンズ開発で培われた光学技術の最先端です。ナノメートル(1ナノは10億分の1)単位の精度が求められます」とモンドンは胸を張った。

会社がたどった数奇な運命

ツァイスの光学技術は世界のカメラの発展を支えてきた。一方でその高い技術ゆえに、会社は数奇な運命をたどった。

1846年に顕微鏡工房を立ち上げた創業者カール・ツァイスは、より精度の高い顕微鏡をつくるため、物理学者のエルンスト・アッベを経営仲間に加えた。アッベは優れた経営者で、培った光学技術をカメラレンズや双眼鏡づくりに応用した。

やがて第2次大戦が起こり、1945年にドイツが敗戦。会社の本拠地イエナはソ連の占領下に置かれ、東ドイツの領域となった。これに危機感を抱いたのが米国だ。当時、ツァイスの光学技術は双眼鏡や銃のスコープなどの軍事利用で高い評価を得ていた。技術が東側諸国に渡るのを恐れた米国は、ひそかにツァイスの経営陣と研究者126人を西ドイツ側に移送し、新会社を設立した。

開発の手緩めず

冷戦下の東西ドイツで会社も東西に二分され、西ドイツのツァイス社は一から技師の育成や製造ラインの組み立てに臨んだ。日本のヤシカとカメラ製造に取り組んだのもこの頃だ。東ドイツの国営企業になったツァイス・イエナ社も、顕微鏡や測量機の輸出で国の経済を支えたという。東西ドイツの統合で再び一つの会社になった。

ツァイスは現在、ナノの世界までのぞける光学顕微鏡や医療機器、プラネタリウムなどを幅広く手がけている。13年度の売上高は42億8700万ユーロ。10億ユーロを超えるステッパーレンズに対し、カメラレンズを含む事業は2億ユーロに満たない。だが、カメラレンズではソニーと、スマホのレンズはノキアと提携し、開発の手を緩めていない。技術者のヒューバート・ナッセは「4K動画などニーズの変化に合わせ、レンズもまだまだ努力の余地がある」と話す。

かつて会社を悲運に導いた軍事産業は仏エアバス社に2012年に売却し、完全に手を引いた。

(和気真也)

ドイツ南部の町オーバーコッヘンにあるカールツァイス本社を訪ねた(撮影:和気真也、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

光が歴史を写し出す

美術品や文化財の研究で使う高精細な写真を専門にする写真家がいる。東京文化財研究所の城野誠治(50)だ。30年以上かけて培った独自の方法で撮影したデジタルアーカイブ写真は時に実物以上に高精細で、肉眼で見えないものも写しだす。

通常撮影
赤外線撮影
特殊撮影
特殊撮影

中判の大きなカメラを使って作品を分割して撮影し、画像をつなぎ合わせることが多い。その結果、写真1枚の画素数が100億画素に達することもある。水墨画やびょうぶ絵といった日本や東洋の作品は、西洋画に比べ材質が繊細で、光に弱いものが多いという。

「正しく写すためには、照明の特性と作品の耐性を知らないとならない」と言う城野は、通常の照明器具のほかに赤外線や一定の長さの波長を持つ光だけを使う特殊な照明を使いこなす。劣化して見えなくなった模様が見えたり、下絵だけに書かれている文字が見えたりする。「私は文化財の鑑識係のようなもの。作品を壊したり傷めたりせず、状態を把握する必要があるのです」
(鬼室黎)

「総写真家時代」を生きる


1926年創刊の「アサヒカメラ」(朝日新聞出版)は現存する雑誌では国内最古の写真誌だ。編集長の佐々木広人が、カメラ90年の歴史を語った。

創刊当時、カメラは庶民には高嶺(たかね)の花だった。大卒会社員の初任給が70円の時代、ライカのカメラは420円、国産のキヤノン製でも275円した。貴婦人の肖像写真が誌面を飾るなど、写真撮影は高所得層の高尚な趣味だったのだ。

光学技術と精密機械の製造力を背景に、国内メーカーがカメラを量産するのは戦後のことだ。価格も手頃になり、庶民 にも手が届く趣味となる。2000年前後にはデジタルカメラが普及し始め、フィルムを扱うのが苦手だった人も、気軽にカメラを扱えるようになった。その後はスマートフォンの普及により、写真撮影は趣味どころか「ごくありふれた日常」になった。ドイツ写真工業会によると、世界中で切られるシャッター回数は1秒間で25万回 (14年 )。私たちは「総写真家時代」を生きている。

デジタル化によってカメラの高性能化も進んだ。普及の初期は600万画素でも「高画質」と言われたが、今や1600万~2400万画素は当たり前。5千万画素を超える高級機も現れ、1億画素に達するのも遠くないとされる。レンズの高性能化も進み、これまで見えなかったものも、鮮明に見えるようになった。

写真家・土門拳は「目に見えるものは写る」が信念だったと、弟子の方から聞いた。テクノロジーの進化は、そんな写真家の思いを凌駕しつつあるのかもしれない。フィルムの時代、夜の空港を飛び立つ飛行機を撮影するのは非常に高度な技術を要した。今はカメラさえ選べば高画質で撮影できる。しかも、撮影後の画像処理で合成はもちろん、色味や構図などを自由に変えられるのだ。

「写真は記録だ」と言われ、決定的瞬間を写実的に表現するものだった。最近は高精細な描写が求められる一方で、カメラやレンズを駆使して「感じたこと」や「心象風景」を表現する人も増えている。Photographyの本来の訳語は「光の画」だ。光なくして撮影できないのはデジタルも同じ。現代のカメラは記録装置の枠を超え、真を写す「写真」から、幅広い表現媒体としての「光画」を生み出す装置へと変わりつつあるのではないか。(寄稿)

ささき・ひろと

1971年、秋田県生まれ。リクルートの海外旅行情報誌「エイビーロード」編集部を経て、99年朝日新聞社入社。週刊朝日編集部などを経て2013年アサヒカメラ副編集長、14年4月から現職。趣味はスキューバダイビング、スキー、楽器演奏、プロ野球観戦、鉄道旅行、愛犬との散歩。いずれも撮影のテーマになっている。特に好きなのが水中写真。プライベートの撮影では、頭部に小型カメラ、手元に一眼レフ機かミラーレス機、という格好で挑む。