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旅人と生きる

Travel 更新日: 公開日:
エメラルド色の滝つぼで、観光客はゆったり水浴び photo:Wake Shinya

エメラルド色の滝つぼで、観光客はゆったり水浴び photo:Wake Shinya

悠々と流れるメコン川は、コーヒー牛乳のような色をしている。6月中旬、ラオス北部にある古都ルアンパバンで、私はゾウの背中にまたがり、その流れを見下ろしていた。だが、気持ちは穏やかではない。ゾウは先刻から、ゾウ使いの指示をまったく聞かず、崖の端で草を食べている。あと数歩踏み出せば、およそ10メートル崖下の川に真っ逆さまだ。ビデオカメラを握る手が汗ばんだ。

と、また一歩、ゾウが前進した。前に座るゾウ使いも「ウェアアアイ」と悲鳴を上げた。私は声も出ない。幸い、ゾウ使いの必死の「説得」で、ゾウは気を取り直して散策ルートに戻った。

ルアンパバンは、人口約4万の小さな街だ。小高い丘から望むと、フランス統治時代をしのばせる赤い屋根に白壁の建物が広がり、ぽつりぽつりと仏教寺院や伝統的な民家も交じる。西洋と東洋の文化が融合する箱庭のようだ。1995年にユネスコの世界遺産に登録されたのを機に、近隣諸国や欧米から旅行客が押し寄せた。多くの旅人を受け入れた街に変化はなかったのか、訪れてみた。

私が乗った観光用ゾウの飼育場を経営するのはシーソムバット・ドーンビライケオ(37)。11人きょうだいの一家に生まれ、9歳で寺に預けられた。19歳になった97年に寺を出てホテルに勤務。独学で英語を学び、ためたお金で日本のスズキのバイクを買うと、ガイドブックを手にやってくる旅行者相手に三輪タクシー(トゥクトゥク)を走らせた。その後、マツダの乗用車、韓国・現代自動車のミニバンへと乗り換えた。

人前でキスをしないで!

2000年には当時の旅行者ニーズを察知してインターネットカフェを開く。旅行会社も立ち上げ、ミニバンでツアーを企画。もうけをホテルに投資した。現在は複数のホテルを経営する実業家だ。

さらに今年、絶景スポットとして名高いエメラルド色の滝つぼの近くにゾウ飼育場を作った。「旅人は常に、新しい体験を求めてくる」とドーンビライケオは狙いを語った。

産業といえば農業しかなかった寒村に昨年は約40万人の旅行客が訪れた。世界遺産登録20周年の今年は50万人に上ると、地元の観光当局は見込む。

急速に膨らんだ旅行者を受け入れる街には、戸惑いもある。観光案内所の入り口に、外国人向けに「禁止事項」を記した漫画があった。むやみに肌を露出しない。人前でキスをしない──など。「旅行者が増えるのはうれしいが、若い世代が影響され、土地の文化が失われることは避けたい」と郡観光当局参事官のソーダポン・コムタボンは話す。

ホテルは70軒、民宿は320軒。1997年に7社しかなかった旅行会社は75社に増えた。いまや市民の収入の9割が観光関連だという。ハイシーズンにも来たことがあるドイツ人女性は「まるで街全体がディズニーランドのようににぎやかだった」と話した。

一方で旅人たちは、ここで暮らす人たちの旅心もくすぐっているようだ。家族経営の民宿で働くビーン・ヌグエン(24)は、いつか自分の旅行会社とホテルを経営するのが夢だ。「その前に、自分も旅をしてみたい。カンボジアやタイ、日本にも行ってみたい」
(和気真也)(文中敬称略)

記事で紹介した崖っぷちの体験、動画でご覧ください。(撮影:和気真也、機材提供:BS朝日「いま世界は」)

支援物資を積み込み、被災地へ photo:Koyama Kentaro

古い王宮があるネパールの山あいの街ゴルカでは、レンガ造りの建物の多くで3階から上が崩れ落ちていた。余震を恐れ、住民たちは自宅で寝ることができない。地震から1カ月半がたっても、道ばたにはテントがひしめいていた。

首都カトマンズの北西約80キロにあるゴルカ郡で、マグニチュード7.8の大地震が起きたのは4月25日。5月12日の余震と合わせ全国で約60万戸が全壊し、約9000人が亡くなった。震源地のゴルカ郡では、山肌をはうように続く未舗装の道は崖崩れで寸断され、軍やNGOの支援が十分届かない。

厳しい状況が続く中で、日本人バックパッカーたちが、被災地に通って支援している──。そんな話を聞いて、震源地から130キロ離れた湖畔の街ポカラに会いに行った。

1泊300円のゲストハウスが、彼らの足場だ。6月19日の早朝、前庭に、21歳から34歳の日本人男性9人が集まった。借り上げたトラクターに物資を積み上げ、彼らも乗り込む。行く先はゴルカ郡マハビール村。人口は約50人。レンガ造りの家屋がすべて倒壊し、3人が亡くなった山深い村だ。

記者と別れた後、2日がかりで山道をたどって村に着いた9人は、持ち込んだ鉄パイプとトタン板を組み合わせ、かまぼこ形の仮設住宅を3日間で15棟建てたという。設計は、やはりポカラに残ってボランティアをしている欧米のバックパッカーたちに教わった。建設費用の約12万円は日本での募金でまかなった。

旅先のありがとうを別の旅先で返す

彼ら9人はもともと知り合いではない。それぞれインドやマレーシア、オーストラリア、フィリピンなどを旅している途中に、何かがしたいとネパールへやって来た。宿泊先のロビーで出会ったり、フェイスブックのやりとりでつながったりした仲間だ。震災直後の5月1日から支援を続ける元工務店社員の関根竜司(28)と、熊本大生の連川裕隆(23)がグループをまとめる。

関根は20歳のとき、9カ月かけて自転車で日本を巡った。初めて会う人に泊めてもらったり、ごちそうになったり。「旅先のありがとうって気持ちを、別の旅先で返してもいいんじゃないかな」。そう思って今回、世界一周旅行中のインドからネパールに来た。

連川はポカラ近郊でトレッキング中に地震に遭った。仙台市育ちだが、2011年の東日本大震災のときは熊本に住んでいた。友人たちが被災しているのに、何もできなくて歯がゆかった。「今度こそ、何かしたかったんです」

当初集った日本人は男性3人、女性1人。米、塩、豆、大鍋、毛布などを買い込んで村へ行った。村人たちと一緒にがれきを片付け、夜は自家製の地酒を酌み交わした。今回で、2人が村を訪れたのは5度目になる。

もともとの旅を、この後どうするのか。インドに行くはずだった連川は、帰国する10月まで残って村に通うつもりだ。「子供たちの笑顔を見ると離れがたくて」。関根は「そのとき次第だけど」と言いよどんだが、「区切りはつける。旅に出てきたのだから、旅に戻りたい」。
(小山謙太郎)(文中敬称略)

日本人バックパッカーが集まるカオサンの宿 photo:Wake Shinya

タイのカオサン通りは「バックパッカーの聖地」と呼ばれてきた。

安宿や格安航空券を扱う旅行会社が集積し、ここにアジア各地へ向かう旅人たちが集まった。でも、いまは少し様子が違う。通りで安宿を提供してきたバディグループは、いまや中級ホテルやレストランを展開する。副社長のジラヴィ・シャヤワラプラパ(30)は「最近の旅行者は安宿に泊まりながら、宿代より高いカフェラテを飲む。『バックパッカー』は安い旅を長く続ける手段ではなく、旅のスタイルの一つになった」と話す。

この町を訪れる日本人バックパッカーの姿も変わってきた。

日本で海外旅行が自由化された1964年から80年ごろまでは、団体旅行が一般的だった。80年代に入り、個人旅行者がにわかに増える。85年のプラザ合意を経て、時代はバブル景気へ。カオサン通りの旅行者実態を研究している関東学院大教授の新井克弥によると、当時のバックパッカーの多くは冒険心旺盛で社会の枠組みにとらわれないタイプだったが、「とんがったバックパッカーはもはや絶滅危惧種」。通りを訪れる日本人は1990年代をピークに減りつつあるという。

バブル期に、二つの変革が起きた。一つは格安航空券をテコに個人旅行の後押しをしたHISの成長。もう一つは『地球の歩き方』の普及だ。海外旅行のハードルは下がり、一気に大衆化する。『ニッポンの海外旅行』などの著書がある独協大教授の山口誠(社会情報学)は、両者の成功が若い旅人を変質させたと分析する。「かつて、貧乏旅行に出かけるバックパッカーは、消費社会への反発を抱いていた」という山口は、旅の産業化が進み、若者がパターン通りの旅を消費する現状をこう評する。「旅のユニクロ化だ」

2000年代のネットの普及が、こうした傾向に拍車をかけた。より効率的で安全に、有名スポットを回るのが、バックパッカーの旅の定番になった。

『地球の歩き方』編集本部長の奥健は、「今の若い読者は、網羅的な情報を取捨選択して旅を計画するのが苦手。最初からお勧めルートや時間配分を知りたがる」と話す。

一方で、ネパールの被災地を訪れたバックパッカーたちのように、「ボランティアに新たな旅の魅力を見いだしているのが現代流」と分析するのは桐蔭横浜大准教授の大野哲也だ。「いまのバックパッカーは旅の中で他者との交流やつながりを重視し、社会の一員としての自己を確立する。社会のアウトサイダーだった頃と180度変わった」
(和気真也)(文中敬称略)