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着物に明日はあるか?

[Part6]もとは平安貴族の下着だった?






大陸の影響が色濃かった日本の衣服に独自のスタイルが生まれたのは、遣唐使廃止後の平安時代だった。現在の着物の直接の原形も、このころ登場したというのが通説だ。


「その原形は、袿(うちき)を着ていた平安貴族の防寒用の下着だったんです」。学習院女子大学名誉教授の増田美子は話す。増田によると、当時の女性が着ていた「十二単(ひとえ)」は、袖口が大きく開いた「広袖」型なので、夏の通気性は良いが冬場は寒い。防寒のため内側に着たのが、もともと庶民が日常着として使っていた、袖口のすぼまった「小袖」だった。


増田によると、武家社会になると、より動きやすい服装が求められた。下着だった小袖が広袖に代わって次第に表衣として着られるようになり、江戸時代中期には現在の着物の形がほぼ完成したという。ひものような細さだった帯は、次第にファッション性を求めて太くなっていった。


幕末から明治に、男性から着物離れが始まる。「鉄砲を持って走る軍隊を筆頭に、近代的な社会に生きる人間は、着物を必要としない体になったのです」とファッション史を専門とする武庫川女子大学講師の井上雅人はいう。自転車や電車に乗り、会社勤めや工場労働をする生活には、洋服のほうが機能的だった。「ある服を着るということは、その服を要請する社会に生きるということなのです」。女性たちは社会進出が遅れたため、男性よりも洋装化が遅れたと井上は言う。





新たな着こなし目指すとき



民俗学者の今和次郎が戦前の1925(大正14)年に東京・銀座で調べたところ、洋服を着ている女性はわずか1%だった。ところが戦後の1955(昭和30)年の別の調査では完全に逆転。和服は4%に減っていた。


この間に何があったのか。「戦争中の総動員体制が果たした役割は見落とせません」と井上はいう。「銃後」を守るため軍人に準ずる役割を求められた女性たちは、着物を改造して作ったズボン型の「もんぺ」をはいて工場で働いたり、バケツリレーに参加したりするなかで、自分が男性と同じように動ける体を持っていることに気づいた。こうした戦時中の素地があったからこそ、戦後すぐに洋裁ブームが起き、女性たちに洋服が浸透していったという。井上は「我々がいま洋服と呼ぶ衣服は、もともと西洋にあった服が近代化とともに世界じゅうに広がり、それぞれの国で変質しつつ、伝統的な服と置き換わっていったもの」と話す。


井上によると、洋服に対抗するように、着物も変わっていった。ゆったりとした着こなしが、「だらしない」とみなされるように。着たときのしわやたるみは嫌悪され、帯の内側に入れる板や、襟に入れる芯などの小物が一般に普及した。自分で着られる人が減り、美容師らにゆだねるようにもなって、着付けの作法が厳密になり、複雑化した。着物はかっちりと、きっちりと着こなさなくてはならない衣服になっていった。


こうした着方を見直してはどうかというのが、服装機能学が専門の文化学園大学准教授の佐藤真理子だ。着物の帯には、体幹部の安定性を高め、姿勢保持を補助する長所があるという。だが、アンダーバストの位置で帯を締める現在の標準的な着付けだと、江戸時代前期のようにウエストで締める場合や、男性のように骨盤周りで締めるのに比べて、身体に与えるストレスが大きいという実験結果が出た。


佐藤は「着物の将来が危ぶまれるだけに、腰の辺りで帯を締めていたころの着方を再評価し、新しいモードとしての着こなしを目指すなど発想の転換をしてはどうか」と話す。


(田玉恵美)

(文中敬称略)

本編3へ続く)







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