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時をはかる

[Part3]赤穂浪士たちを支えた「時計」





佐渡島の時鐘/©Asahi Shimbun

東京のJR錦糸町駅にほど近い公園に、公衆電話くらいの大きさの鐘楼のオブジェがある。この一帯が「本所」と呼ばれていた江戸時代、近くに時鐘(じしょう)があったことを示すモニュメントだ。


時鐘とは、時計をもたなかった江戸の人々に時刻を知らせる鐘のこと。なかでも「本所の時鐘」は、誰もが知る歴史的な事件と関係が深い。元禄15年12月14日(1703年1月)にあった赤穂浪士の討ち入りである。


腕時計で時刻を見ながら待ち合わせることが出来なかった時代だ。「大石内蔵助たちは、3カ所の隠れ家に集合する時刻や吉良上野介の屋敷に討ち入る時刻を、この時鐘に頼っただろう」。史実を研究する「中央義士会」理事長の中島康夫は、そう話す。




当時は「不定時法」という時間制度が使われていた。日中と夜間をそれぞれ6等分したものを一刻(いっとき)とするものだ。日中の長さが季節によって違うため、一刻の長さも違ってくる。その一刻を知らせるのが時鐘の役目だった。


幕府の時鐘役は、西洋風の機械式置き時計を不定時法用に改良した「和時計」や、お香が燃える速さで時刻の経過を知る「香盤時計」などをもとに鐘をたたいていたという。


江戸市中には本所のほかに、時鐘がいくつかあった。時鐘の恩恵にあずかる周辺の住民から、毎月、料金を徴収して維持されていた。時鐘のない地域は、寺の鐘が時鐘の役割を担っていた。


時鐘の音とともに食事をし、働きに出て、家路につく。人々がコミュニティーごとに「時計」を共有することで、日々のさまざまな営みもみな同じようなタイムスケジュールで流れていた。


明治維新の後、欧米と同じ太陽暦と時間制度が使われるようになる。掛け時計の生産も始まったが、一般家庭に普及するまでには少し時間がかかった。このため、1871年(明治4年)に太政官が「日々、正午に1発の大砲を発射すること」と布告し、全国各地で「ドン」という音が時を知らせた。布告は1929年(昭和4年)まで残った。


東京では皇居に大砲が置かれ、空砲が一発ドンと放たれて午前の仕事終了の合図となった。


(和気真也)

(文中敬称略)

(次ページへ続く)

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