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時をはかる

[Part1]「世界記録を、この手で」




ボルトは悪天候をものともせず、今季自己最高記録を出した/photo:Wake Shinya

雷鳴とともに降りだした雨の音を、数万人の歓声がかき消した。8月11日、世界陸上モスクワ大会の男子100m決勝。ウサイン・ボルト(ジャマイカ)は、後半70m過ぎからスピードに乗り、隣を走るジャスティン・ガトリン(米国)をかわしてゴールラインを駆け抜けた。


観客がいっせいにゴール脇の掲示板を向く。「9秒77」。今季自己最高の数字に、スタンドはどよめいた。


そのとき、観客席の一角にあるガラス張りの部屋で、日本人ら12人がため息をもらした。世界記録が更新されなかった、という残念さがにじむ。時計メーカー・セイコーのタイム測定チームの面々だ。


今回の大会でセイコーは、すべての記録計測を担った。ガラス張りの部屋は、いわば司令室。30畳ほどの部屋にはパソコン16台やスタートの音源装置が並ぶ。競技の記録と映像を管理し、競技場内の掲示板や大型ビジョン、テレビ局などに送っている。



2000分の1秒単位で撮影


セイコーのスタッフがモスクワに入ったのは8月1日。「記録の測定に使うのは、すべて自社開発した機器とシステムだ」と、部長の梶原弘は話す。


100m走の場合、電子式スターターピストルの引き金が引かれると、先端がピカッと光り、鉄砲の音のような「パーン」という合成音がスピーカーから鳴り響く。引き金は、スターティングブロックや司令室のパソコン、写真判定用のカメラなどのスイッチの役割もしている。スタートと同時に、これらの機器がいっせいに動きだす仕組みだ。


スターティングブロックは選手の足の力をセンサーで感知し、スタートの反応時間を1000分の1秒単位で計る。スタートから0.1秒未満で走り出した場合、「人間には不可能な反応時間だ」として自動的に2度目の「パーン」が鳴り、審判がフライングの最終判定をする。


写真判定用のカメラはゴールの両脇とスタンドに取り付けてあり、ゴールラインを駆け抜ける選手たちを2000分の1秒単位で何枚も撮影する。これらをパソコンでつなぎ合わせた画像で、各選手がゴールしたタイムを精密につかむ。


五輪や世界陸上、世界水泳などは時計メーカーの支えなしに開けない。技術と資金の両面で担えるのは、セイコーとオメガ(スイス)ぐらいといわれる。


セイコーが初めて計時を担当した大舞台は、1964年の東京五輪だ。


日本政府は当時、国産技術による「科学の五輪」というスローガンを掲げた。セイコーの技術者たちは各競技のルールを学ぶところから始め、高精度のストップウオッチや、スターターピストルと連動した写真判定装置などを開発した。


短距離走ではまだ、選手1人につき3人の審判がストップウオッチを手にタイムを計っていた時代だ。東京五輪でも10分の1秒単位の手動計時が正式タイムだったが、試験的に使った写真判定装置の電気計時が100分の1秒まで正確に計れることを実証した。以後の五輪では電気計時が正式タイムとなった。



五輪は最高のブランドアピールの場


セイコーが参入するまで、陸上競技の計時はオメガの独壇場だった。オメガは1932年、ロサンゼルス五輪で、10分の1秒まで計れるストップウオッチを開発して30個を提供した。これをきっかけに陸上競技に関わるようになった。


オメガはこれまで、夏冬25回の五輪で計時をしてきた。2020年の東京五輪も担当する予定だ。さまざまな機器の開発費やスポンサー料など何億円も出費しないといけない。それでも、世界中の多くの人々が注目する五輪は、最高のブランドアピールの場だ。


オメガ社長のステファン・ウルクハートは言う。「五輪の計時と、月面で宇宙飛行士が腕に着けていたという歴史がオメガの時計の価値を高めている」


どの競技の計時が一番難しいのだろうか? オメガでこの道45年のピーター・フルツラーは「記者はみんなそれを聞きたがるが、これは簡単なんて甘い考えはミスの元だ」と話す。


一発勝負のタイム計測は、成功すればブランド力が高まる半面、失敗すれば取り返しのつかない傷がつく。現場のプレッシャーは大きいのだ。


それでも、ある思いが現場を支えている。セイコー英国法人のマネジャー、スーザン・ブービヤは言う。「世界記録を自分たちの手で計りたい。みんなその一心で頑張っている」


オメガが仕切った昨年のロンドン五輪では、男子400mリレーでジャマイカが世界記録を更新した。ボルトが100mの世界記録を出したのは09年の世界陸上。「9秒58」でカウントを止めたのはセイコーの時計だった。



(和気真也)

(文中敬称略)

(次ページへ続く)



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