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[Webオリジナル]インタビュー越境する数学

[第7回]数学には、たくさんの豊かな意味がある。それがわかれば、これほど楽しいものはない 

長岡亮介さん 明治大学客員教授 

今回の企画を部内で提案したのは昨年夏。「数学が世界をつくる」と題して、「数学者は世界をどのように描こうとしているのか。実世界とどのように『共鳴』しているのか。数学の美しさを探る」と企画書に書きながら、25年前の大学受験の時の記憶が頭に蘇っていました。当時、数学の楽しさを教えてくれた予備校の先生に、話を聞きにいってみました。(2009年12月7日、東京都内で。聞き手・山口進)


――「数学は真理を叙述する詩である。真理は一つしかないが、その歌い上げ方はいくつもある」といった数学の魅力、数学の美しさを常に口にされていたのを覚えています。駿台予備校ではいつからいつまで教えていたのですか。


長岡亮介 お恥ずかしいですね。駿台では大学院の博士課程の1年目、25歳から五月雨的に40歳の頃まで教えていました。
大学院では数理哲学、科学史を専攻していました。少し大袈裟ですが、いまでも数理哲学は、哲学の中の哲学、数学の中の数学だ、と思っています。教室には、大森荘蔵先生や廣松渉先生がいらっしゃいました。廣松先生は、私が肺結核で長期入院していた病院にまで来てくださって、「論文を大量生産しなさい」と言われたこともあります。でも、駿台の方が楽しかった。「東大教授になれる人はいくらでもいるが、駿台で教えられるのは僕しかいない」と思っていました。いわゆるカリスマ予備校講師もいくらでもいるが、学問と教育をつなげられるのは僕しかいない、と思っていました。若かったですね。

 
 

1947年生まれ。東大大学院理学系研究科科学史科学基礎論専門課程博士課程単位取得退学。津田塾大助教授、放送大学教授などを 経て現職。専攻は数理思想史。著書に『数学再入門』(放送大学教育振興会)、『本質の講義 聞いてしまえばとっても簡単!』シリーズ(旺文社)など。

―― 私に感受性がなかったのかもしれませんが、高校で教わった数学は無味乾燥に思えました。
長岡  残念ながら、最近の学校では数学の形式的なこと、表面的なことばかりが強調され、肝心なこと、生きた数学を教えていないような気がします。「2次関数y=axの2乗、a>0のときは下に凸の放物線」 。だから何なんだ。それを知ってどういう嬉しいことがあったのか。質点の運動と結びつけるとか、線型でない関数との最初の出会いとか、2次関数だけで成り立つ性質とか、そういうことはあまり教わっていないようですね。他方、物理をはじめ、理科でも、背景にある数学的演繹のすごさをあまり教えないようです。

数学には、たくさんの豊かな意味があるのですが、定型的な問題を素速く正確に解くことばかりに熱中して、その意味を見損なっているような気がします。

意味が分かれば数学ほど、子供心に楽しいものはありません。目には見えない世界が、研ぎ澄まされた精神には見えてくる、ということが体験できるのですから。

数学は素敵な物語だと思うんですね。なんでそれを楽しく伝えられないのか? と思います。

かといって、単に数学は楽しい、美しい、というだけではダメだと思います。それだけでは伝わらないからです。数学者は、みんな数学が好きです。自分が好きであるということを少し広い関心の中で語れれば感動的な物語になるのに、自分だけの世界の関心で語ってしまう傾向があるように思います。

数学者の一番の欠点は、他の分野の文化に対する理解の不足です。自分が面白いと思っていることをそのまま語りかければ他の人も面白いと思ってくれる、と信じ込んでいる。これは最も良いケースではありますが、それであっても、こういうアプローチは、もてると思っている男性が、若い女の子に「いいだろう」と言っているようなもので、相手には全然よくないのと同じ。ナルシストの男とはつきあえない。

数学者は、相手のこと、他の文化を理解することが今後はますます大事だと思います。数学者の口癖として、よく「文科系の人は」とか、「あんなものは数学じゃない」といいます。よくいえば純粋だが、悪くいえば自己中心主義。それでは、人の心に伝わる言葉で語れないのではないかと心配です。専門の壁を越えて対話することが真に大切です。

――純粋数学にこそ価値がある、という考え方が根強いのでしょうか。

長岡 純粋数学の大きな発展が、ずっと語られてきました。20世紀初頭の偉大な思想、幻想的野心といっても良いかもしれません。これを私はヒルベルト主義(註:ヒルベルトは、20世紀数学の基礎を築いたとされるドイツの数学者)と呼んでいるのですが、その中で数学は約100年間大いに「発展」してきたのですが、その一方で、タコツボ化と総称される現象が数学のなかでも起きたわけです。

純粋数学の壮麗な大伽藍に神官として仕えるのが数学者の務めであると数学者達が感ずるのは自然なことです。
「数理世界」という、一般の人には見えない世界が、現実世界と同様、ただしそれとは違うものとして実在している、というのは数学者の共通感覚なのです。それを否定はしませんが、そう言った途端、現実から遊離している自分たちを正当化してしまう面があることを忘れがちです。

未解決の問題を解くことは数学者の使命です。しかし、「未解決→解決」自身に意味があるわけではない。私は学生によく言います。「人類が誰も解いたことのない問題というだけなら、君たちでも解ける」と。たとえば、巨大な数同士のかけ算。でも、くだらないだろう、と。良い問題を解くことが大切なのです。

数学の人はときどき「周辺領域」と傲慢ともとられかねない言い方をしますが、数学者は人類のすべての文化領域と、数学的な知性、概念を使って対話できるはずです。そのためには、数学者が他の分野に関心と共感をもつことが大切だと思います。最近はフィールズ賞は、そういう領域の開拓的仕事に贈られています。
新しい領域は、数学的には不完全ですが、それを「重要」と評価する新しい潮流がうまれているということです。

生活世界の中で、数学が生きられなければならない。

現代社会では、ありとあらゆるところに、数学があります。例えば、携帯電話は、半導体や液晶といった物質的な方面に関心が向きがちですが、実はその中には、大量の情報を確実かつ安全に、しかも限られた電波資源で送受信するために、数学的な理論と技術が凝縮しています。

さらに身近な例でいうと、ここにウエットティッシュ(喫茶店の紙のおしぼり)のビニールの袋がありますね。あるところまではバネの世界。その後、元に戻らなくなる。そして細くなる。最後には切れます。このような「応力ひずみ」は、もともと建物などの固い素材の世界で使われてきた概念です。最近では、ポリエチレンのような高分子にまで応用されている。この現象を記述する最も簡単なのは、「マクスウェルモデル」と呼ばれる微分方程式です。

天気予報も、ナビエストークスという流体力学で用いられる偏微分方程式を、数値的な方法でコンピュータを使って解いています。方程式としては極く単純ですが、大きな規模で精密に解くのは、コンピュータを使っても絶望的に難しい。

わかりやすくいうと、微分方程式の古典的な思想というのは、関数とその導関数の満たす微分方程式という法則が与えられているとき、その関数のグラフが通る1点がわかっていると、グラフが通るすべての点がわかる、というものです。しかし、数学的手法だけで解けるのは例外中の例外で、圧倒的に多くの微分方程式は、数値的な方法でしか解けない。昔の高校でやっていた微分方程式は、数学的に解ける特殊な場合のものだった。それで、そんなものだけならやめちまえという人もあって、高校数学ではすっかりやめた。これは非常に残念です。

微分方程式には思想史上も、重要な意味があるのです。

微分方程式こそは、自然や社会を数学的な精密さで叙述する上での必須の武器であり、近代以降の我々の宇宙観、自然観の基盤であり、「宇宙は数学の言葉で書かれた書物である」というガリレオの言葉が最もわかりやすく当てはまる世界なのです。

数学は何に役に立つか?そのような質問を発する人が多いのですが、そういう人は、その答えを理解するために、少なくとも微分方程式までは数学の勉強を頑張ってほしいと思います。

近代の科学主義はこの微分方程式に基づいて「データさえ集めれば未来が予測できる」という考えがその原点です。そういう近代思想を支えている数学的手法がある、ということは高校生にも教えたい。ラプラスは、もし我々はすべての情報を手に入れることができたら、未来のことも過去のこともすべてわかる、と考えた。微分方程式を解くことによって、と。

しかし、残念ながら、すべての情報はわからない。そこで、確率の考え方が出てくる。確率は、我々の未来に対する無知を表している、と。ラプラスは、硬貨を投げて表が出る、裏が出るということについて我々は何も知らない、そのことを確率2分の1というんだ、と言ったわけです。

微分方程式的世界像に対して、いま、正反対の自然観が出てきています。確率論こそすべて、というものです。典型的なのは熱力学です。冷たい氷を熱湯に入れると、生ぬるいお湯になる。このことは力学的には証明できない。ビリヤード台の玉突きのような力学現象は、すべて時間を逆にできる。ビデオに撮って逆回転しても、力学的現象としては矛盾しない。しかし、熱に関する現象は、逆にはできない。生ぬるいお湯は、熱湯と氷にはならない。熱力学を含め、未解決で重要な数学の研究領域が拡がっています。

「最先端の数学」という話題を論じるときに考えておかないといけないのは、みんなが飛びついている話題というのは普通の意味で最先端ですが、クールに見ると、はやっているだけですたれることも多いということです。私が20歳くらいのときにはやっていた話のいくつかは、今ではあまり見向きされていません。反対に、「こんなものはインチキだ」と言われたものが大きく成長する場合もあります。「カオス」や「複雑系」はその典型ですね。

最近大きな成長が気体されている分野として、物理から化学、生物学にまたがっている分野があります。明治大学では「現象数理」と呼んでいますが、これは大化けする可能性があると思っています。


―― 数学教育について現在考えていらっしゃることに、予備校での経験は生きているのですか。

長岡 予備校で教えた経験はものすごく大きかったですね。生徒たちが間違えるときには、そこに必ず"合理的"な理由があるということを発見したからです。単に「間違い」と片づけられないことや、あるいは数学的に、ときには哲学的にセンスの良いことをしている場合もしばしばあったのです。わかりやすい話として小学校レベルの足し算を例にとれば、1/2+2/3=3/5というのは、ひどい誤りの例としてひかれることが多いのですが、考えようによっては、第1成分同士を足し、第2成分同士を足すベクトルの計算をしていると言うこともできます。つまり、図らずも高校の数学をやっているとも言えるわけです。

あるいは、子どもが「4/8」という分数を答えた時に「1/2と約分できるから間違い」と判定するのは、単純過ぎるでしょう。そもそも、4/8=1/2が本当なら、4/8でも正解のはずですし、4/8より1/2のほうが良いという場面も、その逆に4/8のほうが適していると言える場合もあり得るのです。例えば、4パックの牛乳を8人で分けるとき、全部開封して半パックずつ分けるのではなく、1日に1人1/8パックずつ、4日に分けて飲むということをどう表現するか。そんな場合を考えてみると良いでしょう。

いま小学校や中学校、高校で教えている内容は、数百年前は学問の世界でも常識でなかったものがたくさんあります。生徒たちが躓いたり、疑問に思ったりすることと、過去の大発見は関係していることがよくあります。なぜ負の数と負の数をかけると正の数になるのか。虚数"i"とはいったいどんな数なのか。教える側が、その背景にどんな歴史があり、ほかの分野とどのように関係してきたのかといったことについての多くの知識、深い理解をもって説明できるならば、数学の面白さを感じる子どもがずっと増えるかもしれません。

数学で学ぶ一つひとつの事柄は、バラバラにあるのではなく、相互に結びついています。
高校レベルの数学の主題である、例えば、「複素数」「座標平面」「高次方程式」「三角関数」などは緊密に結びついているのです。その不思議な結びつきこそが面白いのです。
単純そうなことの奥に、実は興味深い世界が広がっている。それを、間違いをきっかけに伝えられる可能性があります。それによって子どもたちは「分かることの楽しさ」、学問の喜びを発見し、次第に眠っている才能が開花して行くのだと信じます。

数学教育の最大の目的は、そのように、数理世界を探検するための確かな技と、理解すなわち、発見の楽しさを子どもたちに伝えることです。初めは理解できなかった問題が、帰納的、または演繹的な思考を積み重ねていく中でいかに明確化、単純化されて解決するか。諸行無常の世界にあっても、普遍的、絶対的な認識がいかに身近に存在するか。あるいは、反対に、人間の論理的思考の「絶対的確信」がいかに脆弱であるか。個別具体性の中に埋まっている諸真理が、時にいかに大きな真理に統合されるか。そういったことを、少年期、青年期に体験させるのに、数学ほどふさわしいものはないのではないでしょうか。数学好きの人が数学好きになるきっかけも、数学嫌いの人がそうなるきっかけも、「今まで見えなかったものが長い思考の中で急に見えるようになる」数学体験の魅力と不確かさにあるのではないかと思います。

――アスパラブログ (https://aspara.asahi.com/blog/globe/entry/gMjck4awMG)  にも書いたように、今回の取材班の記者たちは、それぞれ数学に挫折した経験を持っています。

長岡 「小学生のとき鶴亀算で挫折」という人がいましたが、私は、この挫折はとても重要だと思います。鶴亀算には、日本の、と、とりあえずは限定しますが、数学教育の弱点と強みがあるように思っています。
数学教育は、しばしば本当の意味で考える力、難しい問題を解決していく力をつけているとはいえない。平たくいえば、実験、観測と結びついていないということになるのでしょうが、生きられる世界と、数学以外の他の文化と結びついていない、要するに、お約束の世界です。そもそも、鶴と亀を一緒に数えるのは異様なことですよね。まして、鶴の脚と亀の足です。ちなみに、鶴亀算はもともとは兎と雉なんですね。

しかし、お約束の世界、というのは逆に強みでもあります。いかに現実では無意味そうに見えても、約束した世界でのルールに沿ってしっかりと考えて、明確な結論を明確に導く、このような能力を、必要とする分野があります。良い意味での官僚はその典型の一つではないでしょうか。

本来は、お約束の世界と、生きられる現実世界のブリッジが、何らかの形で保証されないといけない。数学は実社会で役に立つ、とすぐ強調する人がいますが、約束の世界をそれとして受け入れ理解する能力が実は最も「役に立つ」ことの一つであるように思います。あまりにもひどいお約束、つまり約束のための約束になるとよくないですけれど。

抽象的な数学が思いがけず本当に役に立つ、ブリッジが成立する、という人類史上の大革命もたくさんありました。一般人である我々は、それを賛美することしかできませんが、賛美、つまり追体験するだけでも凄いことなわけです。

数学に恨みを持つ人は、大学で数学系の分野を専攻した、中学高校の数学の先生に多いと聞きます。高校までは問題を解けた、しかし大学の数学はわけがわからない、という。高校までは、子どもが数学教育に参加している。大学の数学教育がつまらないのは、学生を教育に主体的に参加させることに成功していないからです。先生たちが学生に分かる言葉で、自分の研究の意味を語れなくなっているからです。私が今いる明治大学は、例外的にそれをやろうとしている大学となるかもしれません。決して学生に迎合的ではありませんが、アクティブに情報発信している先生も多いです。

――明治大学の前には、放送大学にも長年、かかわっていらっしゃいましたね。

長岡 専任として10年以上いましたね。良い経験でした。国際的には、遠隔教育は巨大なうねりになっています。遠隔教育大学は、いつでも(anytime)、どこでも(anywhere)、だれでも(anyone)、の「3A」を謳い文句にしてきました。この十年ほど、さらに"at any pace"という「4番目のA」が大事だと、世界はいうようになりました。高品質の教育を、できるだけ弾力的に与えることが教育システムを考えるとき重要です。ところが、日本は、戦後「民主化」したとき、教育の機会均等の理想が、それをお題目のように唱えるだけの無責任な体質を通じて、硬直した「官」のシステムができてしまったのです。「公」のサービスである教育が、「官」の管理下に入ってしまっています。いまでは多くの学校の先生たちが実力を失って、教育委員会の顔色、親の顔色をうかがって見ています。中には、自分の理想をもってそういう勢力と闘っている先生もいらっしゃいますが、そういう先生をしっかり応援するためには、私自身は〈官〉から下っちゃった方が早い、と思うに至ったのです。

――いまは、高校数学のカリキュラムは「数学I」「数学II」「数学III」と「数学A」「数学B」「数学C」に分かれているのですね。

長岡 戦後、数学の指導要領が大きく改訂されたのは5回あります。
1回目。1963年に施行された「数I、数学IIB、数学IIIカリキュラム」では、伝統的な初等幾何が廃止され、変わって集合・論理やベクトルなどの現代数学的素材が大胆に導入されました。人工衛星打ち上げの成功に象徴される、科学に対する国民の期待が最も盛り上がった時期で、高度成長期に入った日本社会の産業基盤を整備・発展する人材の養成を目指して理工系大学・学部などの新設、増設も盛んで、空前の理工系ブームでした。それを背景に、決して簡単でない素材が現場ではすぐに吸収・消化されました。

2回目。73年に施行された「現代化カリキュラム」は、集合、写像、行列、一次変換の概念に象徴されるように、それまで学校数学と現代数学が乖離していた、その溝を、大胆に埋めることを目指したのです。しかし、現代数学的な理念は19世紀後半に、それ以前の数学観との極めて先鋭な対立を通して成立したものです。一方、高校以下の数学教育は基本的には、牧歌的な近世数学(16~18世紀)の時代の「健全」な日常感覚に基づいて展開されています。「現代化」は、この最大の矛盾をまったく意識することなく強行されました。その結果、現代数学の理念への接近ではなく、むしろ空洞化した数学の形式的な問題解法の技術だけが教えられる傾向を強めたのです。結局、大量の数学嫌いを生み出すことにつながっていったのです。

3回目は、83年に施行された「数学Ⅰ、基礎解析、代数幾何、微分積分、確率・統計カリキュラム」です。3科目構成から5科目構成に移行したわけです。内容を細分化した結果、内容の貧困化、総合的理解の崩壊をもたらしました。例えば、従来「数ⅡB」として一体化していた基礎解析と代数幾何、基礎解析と確率が、独立に教えられたことにより、それらの間の融合的な理解は、入試問題を唯一の例外として、正規の教育から失われることになってしまったのです。学校が子供と家庭から信頼を失い、塾・予備校の隆盛時代を迎えます。

4回目は、94年に施行されました。「コア・オプションカリキュラム」です。すべての高校生が学ぶべき必須の中核的知識を必修カリキュラムとして規範的、統一的に提示するとともに、それから外れた学習を現場の自由な裁量に委ねることにしたのです。しかし、各科目の単元の編成が、内容に従ってではなく、学習者の負担を考慮して行われたため、科目としての統一像を結び得ないものになってしまいました。「できない子ども」への「配慮」を口実に、「数Ⅰ」や「数Ⅱ」において、困難な課題(たとえば複素数や弧度法)を避けたばかりか、将来の発展に必須の基礎分野(数と式、論証)までも、選択科目に回してしまったのです。その結果、正規の過程では、これまでの高校生の平均的な学力さえとうてい身につかないという予想は不幸なことに的中してしまいました。学校は一層の凋落の道を辿るのです。

そして、5回目。2003年に施行された現在の指導要領です。もっとも深刻だったのは、小学校、中学校で「縮減」された内容を高校で引き受けることでした。1次不等式、三角形の重心、相似な図形の面積比、体積比、円の性質、日常統計といった中学2年、3年の内容です。これだけの内容を受けて、しかも高校数学の時間数も削減されている中で、何を守り、何を削減すればいいのか。もはや高校数学教育の破綻は見えているように思います。

以上のことは、5回目の改訂が施行される直前の時期に論文に書いたことがあります。この論文が、私の数学教育へのかかわりにとって、大きな転機となりました。いままた改訂が大きな話題となっていますが、小泉以降の自民党政権の「改革」のように見えます。

――最近は、音声CDつきの教科書を出版されていますね。

長岡 はい。文部科学省検定教科書に、編集責任者だった私が自ら音声解説をつける、という前代未聞のことをやりました。教科書がある事情から突然、販売が中止されてしまったことがきっかけでした。でも、そのおかげで、この出版ができました。放送大学の経験を生かした、とも言えますが、音声を使うと、完成した教科書の表面には書かれていない、個々の記述の数学的意味やその面白さ、不思議さなどが意外に解説しやすいと考感じました。それによって、一般の参考書とは違う教科書の特長、つまり「数学をマスターする上で必要な基本事項は、すべて漏らさず、体系的に、ほぼ論理的に、極めて簡潔に説明している」という良さを生かしてもらえると期待しています。
そして、この試みは、デジタル技術を教育に活用して、全国一律の硬直した学校カリキュラムを弾力化したいという私の願いを実現する第一歩でもあるのです。

 

 

 

 

 

 

(文中敬称略)

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