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「多数」と「少数」の間の緊張関係をどのように考えるか。米国憲法や連邦最高裁の歴史に詳しい阿川尚之・慶応大学教授に話を聞いた。
(9月16日・東京都千代田区での取材などをもとに構成。聞き手・宮地ゆう、山口進)
―― 米国憲法の成り立ちと、少数者の権利についてどう考えますか

阿川 憲法制定によって米国が建国されたとき、特に守るべきと考えられたのは少数者の権利であり、具体的には多数の横暴をどう防ぐかという問題でした。イギリスから独立し自由を勝ち取ったのに、なぜ中央政府をつくるのか、再び圧制となりかねないという反対が、強かったわけです。そこで憲法制定を推進する側は、中央政府による横暴の心配をなくすだけでなく、多数派の横暴を抑え、民主主義を発展させるためにも、憲法が必要なのだという論陣をマディソン、ハミルトン、ジェイが新聞紙上で張った。それをまとめたのが「フェデラリスト・ペーパーズ」です。
マディソンは、実際に機能する民主主義について世界一考えた人だと思います。そもそも人間は平等ではありません。格差がまったくない社会というのは、ありえない。そして、平等でなければ、派閥ができるのは当然の結果。ただ、同じ利益を持つ人たちの集まる派閥がいつも多数で、固定してしまうのは恐ろしいことです。それを防ぐにはどうすればいいか。それは、共和国構成員の数を大きくするのが一番いい。そうすれば、いつも多数が固定するということがない。多様性のメリットが働く。また政府が100人の集団に対して5人のリーダーを選ぶより、もっと大きな何万人という集団から選んだほうが代表の質が良くなる。だから大きな共和国を目指したわけです。
民主主義は多数決で物事を決めますが、その結果が必ずしも正しいとは限りません。また、少数者は原則として多数者に従わなければいけないが、どうしても譲れない基本的権利に関してまで、何でもかんでも従わなければならないわけではない。したがって、あらかじめ少数者の権利が守られるようにしておかねばならない。その仕組みが立憲主義であり、さらには憲法が定める三権分立など個々の制度です。誤解してならないのは、多数決を基本とする民主主義と立憲主義は、実は時に矛盾するということです。99%の人が違うと思っても、1%の人々の権利について憲法が守る。最高裁が具体的な事件において憲法を解釈し少数者の権利を認める。それが憲法裁判の意味です。判事は選挙で選ばれていないのに、法律を無効にできます。多数で決めたことを、スペードのエースでダメといえるわけです。だから憲法解釈にあたっては、主観を排す。あくまでも抑制的でないといけないのです。
―― 米国の最高裁での少数意見の特徴は?
阿川 米国の最高裁自身、多数決の原理で判決を下します。9人判事がいるので、意見が割れても少なくとも5票をとった意見が勝つ。ただし、多数派になれなくても反対意見を書いて残すことができる。後に少数意見のほうが正しかったということもある。それが最高裁の正統性の一つの担保になっています。
よく反対意見を書くスカリア判事は、文章に力があって、彼の判決文は読ませます。ある時、スカリア判事にパーティーで会い、「(判事の判決文を)読んでいます」と言ったら、「私の少数意見はロースクールの学生のエンターテイメントのために書いているんだ」と冗談めかして言っていました。
「月刊Asahi」の仕事でスカリア判事のインタビューをしたとき、「日本と違って、米国ではみな最高裁判事個々人のことを話題にしますね」というと、彼は嫌な顔をして「あなたの質問は間違っている」と。「国民で最高裁判事の名前を知っている人たちは例外だ。(唯一の女性判事だった)オコナー判事は有名だが、俺たちのことを知っているのは1%だ」と。なぜそういうのでしょうか。彼にとって最高裁の判事は、選挙で選ばれていない以上、世論を気にして判決を下してはいけない。大衆に受けるかどうかは気にせず、憲法の条文を忠実に解釈して、それを事実にあてはめ判決を出すだけです。したがって悪評が多くてもかまわない。書いた人が誰かは関係ない。そういう彼の考え方は正しいと思います。もっとも、判事も人間ですから、世論をまったく意識せずに判決を書くのは、実際には難しいと思いますが。
スカリア判事は憲法の条文と憲法制定時以来の伝統を重んじる人です。判決を下す上で、憲法の条文が明確であれば、それに従う。しかし憲法にはっきりと書いてあることは少ないですし、解釈が分かれることもある。たとえば、死刑を憲法が禁止する「残酷な刑罰」として違憲とするかどうかという問題について、スカリアは「憲法制定時は違憲ではなかった、その後も変わらない、したがって違憲ではない」と言っています。長い年月とともに社会の価値観は変わります。たとえば、今日、ホモセクシュアルの権利を法律で認める州は増えていますが、認めない州も多くあります。ホモセクシュアルの権利は連邦憲法で守るべき、アメリカの伝統のなかに広く深く根ざしている価値観と言えるだろうか。それが彼の判断基準の一つです。
―― 日本の最高裁についての印象は?
阿川 ある日本の憲法学者によると、日本は一種、最高裁が教育的な役割を果たしているといいます。違憲判決はめったに出さないが、傍論で「望ましくない」ということがよくある。そうすると、立法がそれに応えて新しい法律を作る。そういう日本的司法審査もあるのかと思います。米国と比べて「いい」「悪い」というのは簡単ではありません。異なる歴史や文化を有する社会には、おのずから違う司法があるのだと思います。
―― 少数意見にも様々なものがありますね。
阿川 米国の制度は、少数意見が多数になることを予見している側面があると思います。19世紀のフランスの思想家トクヴィルが書いていますが、米国の少数派は、自分たちが選挙を通じて多数派になる可能性を常に意識している。多数になったらどうしようかと思っているから、過激にならない。しかし、(当時の)ヨーロッパの少数派は、民主的プロセスを経て多数派になれるとは思っていない。そうであれば、権力を得るには暴力革命しかない。あるいは、無責任に少数意見を言う。そのどちらかです。どうしても過激かつ無責任になる。
その観点から言えば、日本の政権交代は、長い目で見るといいことだったと思います。民主党や社民党も言ったことに責任をとらないといけない。少数意見が多数意見になったときどうするかを考えないといけない。少数のままだと無責任になる。ですから少数派は多数になる可能性も考えて主張することが必要です。そこに現実的な意味がある。ただ、今の鳩山政権は、野党気分がまったく抜けておらず、無責任きわまりない。困ったものです。