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[Webオリジナル]インタビュー 判事たちの声を聞け

[第2回] 少数意見の意味とは何か

小田滋・元国際司法裁判所判事、日本学士院会員、東北大名誉教授


オランダ・ハーグの国際司法裁判所で3期27年、裁判官を務めた小田滋氏(85)は、少数意見が多かったことで知られる。少数意見の意味をどう考えるか、日米最高裁をどうみるかなどを聞いた。
(11月13日、東京都中央区で。聞き手・山口進、宮地ゆう)


――特集を読んでいただいたと聞きました。

小田滋・元国際司法裁判所判事

小田 非常に面白く読みました。半世紀以上も前に、私が若き法学者として、日本の最高裁の少数意見の貧弱さを批判して、法学界に波紋を投げたことを思い出しました。昭和27(1952)年から28(1953)年ごろ、戦後初めてのアメリカ留学生として、エール大ロースクールで勉強していたころのことです。


――どのような批判だったのですか。
小田
 法律雑誌「ジュリスト」が創刊されて間もなく、私は次々とアメリカ連邦最高裁の記事を送っていました。そうして、総論的に「最高裁判所を直視して――ある先輩への手紙――」(1953年4月1日号)という論文を寄稿しました。日本の最高裁判事がおそろしく消極的で、反対意見や個別意見をほとんど書かない、と指摘しました。その前にも同じ雑誌に、「全員一致の判決ばかりを下しているのは、敗訴側弁護士がよくよくの能なしであるか、判事が無能であるか、いずれかであろう」と書いたり、「15人の大法廷が法の解釈についていつも意見が一致するなど考えられない」などと書いたりしたこともありました。それに比べ、アメリカ連邦最高裁では、反対意見を伴う判決の割合が、過去5年で6~7割に上ることも紹介しました。またそのころ、私は連邦最高裁判決の統計的分析なども試みました。


――米国は、当時から活発だったのですね。
小田
 そうです。連邦最高裁は当時、月曜が開廷日でしたが、火曜日のニューヨークタイムズが1ページ以上を割いて記事を出す。その記事に、それぞれの判事の少数意見もダーッと載るわけです。それを読むのが毎週週明けの楽しみでした。それに引き換え、当時船便で取り寄せていた朝日新聞に「最高裁判所」という言葉がどのくらい出てくるか調べたことがありますが、長官の田中耕太郎先生が宮中の催しに行ったことだけだった、ということもありました。裁判の中身は報道されない。

――論文には、どのような反応があったのでしょう。
小田
 当時の最高裁事務総長の五鬼上堅磐(ごきじょう・かきわ)氏から、同じ「ジュリスト」に早速「小田に答える」という形で反論が寄せられました。「確かに小法廷では少数意見は少ないが、大法廷の判決だけで見れば、昨年度は50%につけられている」「一般的にわが国ジャーナリズムにおいて裁判の問題の取り上げ方が少ないことは、われわれの常に遺憾とするところである」などというものでした。

私はアメリカからすぐに再反論を書きました。しかしそれは掲載されず、憲法学者の宮沢俊義先生が「数ではなく、少数意見の内容が問題。ひとつひとつ、内容を検討しよう」と「喧嘩両成敗」をして、終わったことがありました。その後私は最高裁論、裁判官論をやめて、本来の専門の国際法にもどってしまいました。その後、誰か、最高裁の個々の判事の分析から日本の司法制度を研究してくれる人がいないかと見ていましたが、そういう研究はついに出なかったようです。その意味で、今回の朝日新聞GLOBEの特集はまことに興味が深かったのです。

――東北大教授などを経て、76年から03年まで、国際司法裁判所の裁判官を務められました。この間、多くの少数意見を書かれたそうですね。
小田
 エール時代の寮のルームメートのカナダの友人が、のちに著名な国際法学者になり、「小田少数意見集」を編集して、オランダで出版してくれた英文の本は2冊、計千数百ページになります。

もっとも、私は、自分の少数意見の数やその分量の多さは自慢したことはありません。

私が尊敬する10歳上の同僚であった英国のジェニングスなどの場合、決して少数意見は多くない。なぜか。彼は、裁判官たちの合議の中で、自分の意見にほかの人を納得させる能力があった。私は、ほかの人を説得して自分の方に持ってくる能力がなかった。引っ張る英語の能力の問題もありましたが・・・。しかし、多数に必ずしも同調せず、自分なりの意見を常に持ってきたことは誇りに思ってきました。このジェニングスが裁判所長、私が副所長で協力しあった時期があります。裁判所の歴史のなかのもっともよい時代と言われたものです。

裁判官として一番楽な方法は、だまっていること。いつも多数意見にイエスと言っていればいいのですが、それでは判決の質は向上しません。

――現在の日本の最高裁をどうご覧になっていますか。

小田 私は現在、日本の弁護士として、「光華寮事件」という訴訟にかかわっています。
(京都市内の留学生施設「光華寮」を舞台に、中華民国(台湾)が67年、中華人民共和国を支持する寮生たちに部屋の明け渡しを求めた訴訟。07年3月、提訴から40年を経て、台湾側を事実上敗訴させる最高裁判決が出た。審理は一審・京都地裁に差し戻されている。)
私は最高裁判決直前の07年2月から、台湾政府代理人を務めています。

国際法の本質にもふれるこれほど重要な問題で最高裁が上告以来20年も放置してきたこの事件を、大法廷で審議することもなく、小法廷が一人の少数意見もなく、全員一致の判決を出したということは驚くべきことでした。しかも中国首相の訪日にあわせるかのように充分な審理もつくさずに判決を出したことに、私は最高裁の節操を疑いました。この時にも、私は、「ジュリスト」誌上で論争を展開した若き日々を思い出したのでした。

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