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現地取材記 深まる危機のなかで

[第3回] アラファト廟にて

「アラファトの失敗は個人崇拝で自治政府を仕切ったことだ」

エルサレムからヨルダン川西岸の中心都市ラマラに入った。ここにパレスチナ自治評議会と自治政府議長府がある。私(川上)がエルサレム特派員として駐在していた2002年春、イスラエル軍はアラファト議長がいた議長府を包囲し、実質的な軟禁状態においていた。イスラエル軍は最後にはショベルカーを繰り出して、議長府の周囲にある建物を破壊し、アラファト議長と、その側近を一棟だけに閉じこめた。
当時のイスラエルのシャロン首相は、81年に国防相としてレバノン侵攻を指揮し、ベイルートに拠点をもっていたアラファト議長とパレスチナ解放機構(PLO)を包囲して、兵糧攻めにした。PLOはベイルートから退去することになるが、ラマラ包囲は20年を経て、ベイルート包囲の再現を見ているようだった。

アラファト議長は04年11月に、病気が悪化して移送されたパリの病院で死亡した。いま、議長府のわきにアラファト議長の墓がある。広い敷地に、白い大理石を巨大な立方体に積み上げ、その中に墓石があった。アラファト廟という言葉がふさわしいだろう。廟のとなりには、これも近代的な美術館のようなモスクがある。モスクのよこには、大きな石版がおかれ、「彼の名は、破局の灰のなかからよみがえって、抵抗の

川西岸にあるアラファト議長の墳墓

炎となり、国の思想となった新しいパレスチナ人の代名詞である」という言葉が刻まれ、パレスチナの民族詩人マフムード・ダルウィーシュの名前が出ていた。
墓があまりに立派なことに、強い違和感があった。アラファト議長は、93年にイスラエルと結んだオスロ合意を、パレスチナ独立国家として成就させることができず、最後は、イスラエル軍に包囲され、年老いて、病んだ、無力な指導者としてパジャマ姿でヘリコプターに載せられて、移送された。その哀れな末路と、この立派過ぎる廟との落差は大きすぎる。ましてや、イスラエル軍による3週間近いガザ攻撃で1300人が死んだ直後に訪れたためか、パレスチナの悲惨な現実と、荘厳すぎるアラファトの廟と間にも、埋めることができない距離を感じた。

パレスチナ問題について、「アラファトが解決の鍵であり、同時に問題そのものだ」といわれていた。93年にイスラエルとの間で調印されたオスロ合意の始まりから、崩壊までの出来事は、まさに、その言葉を体現したものだった。
パレスチナ難民の帰還権、エルサレムに対するパレスチナの主権、イスラエルの占領の根幹であるユダヤ人入植地の撤去の問題など、それまでパレスチナ問題の核心だった最重要課題をすべて棚上げして、ガザとヨルダン川西岸の小さな町エリコから暫定自治を始める。「パレスチナの大義」を放棄するような合意内容である。パレスチナ解放闘争を担ってきたアラファト議長だから、できた決断だっただろう。
9・11米同時多発テロ事件の後、アルカイダに対する対テロ戦争を宣言したブッシュ米大統領に対して、シャロン首相は「われわれにとってのビンラディンは、アラファトだ」と述べて、アラファト体制への軍事的攻勢を強めた。

当時から、ラマラを訪れるときには必ずパレスチナ政治状況について話を聞いていたシンクタンク「パレスチナ政策研究センター」所長のハリル・シカキ氏を訪ねた。

「アラファト議長はパレスチナ自治政府に公的権力の仕組みをつくるのに失敗した」と語るパレスチナ政策研究センター所長のハリル・シカキ氏

オスロ合意について、シカキ氏は「合意について、パレスチナとイスラエルの双方の期待が食い違い、互いに不信感を強め、和平プロセスに失望した」と振り返った。
「パレスチナ人はオスロ合意について、イスラエルの占領の終結とパレスチナ国家の独立をもたらすと期待した。しかし、現実にはオスロ後も入植地が増え続け、7年間で倍になった。パレスチナ人はイスラエルがオスロ合意を利用して、占領を強化し、拡大していると考えた。一方のイスラエルはオスロ合意が始まって、パレスチナのハマスが自爆攻撃を始めたことなどから、パレスチナ人は和平の達成に真剣ではない、と考えた」
さらに、シカキ氏は「オスロ合意が、始まりだけが決まり、結果が決まっていないプロセスだったために、互いが最終結果を自分に有利にしようとして、互いの不信感を強める結果になった」という。パレスチナはオスロ合意で占領は終結すると考えたが、イスラエル側には西岸全域から撤退するつもりはなく、入植地を増やして既成事実をつくろうとした。つまり、和平プロセスのあり方そのものが、最初から失敗の芽をはらんでいたということだ。

双方の不信感を強め、合意を破綻させることになったのが、2000年9月に始まったパレスチナのインティファーダ(民衆蜂起)だ。シャロン首相は、アラファト議長が暴力を手段として行使したとして非難し、軍事力を行使する口実とした。
インティファーダでのアラファト議長の役割について、シカキ氏はどう見ているのだろうか。
「インティファーダが始まる前にクリントン大統領の仲介で、アラファト(議長)は、バラク(イスラエル首相)との間で、キャンプデービッド会談を持つが、それが決裂した後、米国とイスラエルはアラファトを非難した。このときに、アラファトはイスラエルがもう和平交渉を続ける気がないのだと考え、インティファーダが始まったときに、パレスチナの治安を統制するという役割を放棄した。そのようなアラファトの態度を見て、パレスチナ警察に入っていたファタハの若いメンバーは武装闘争に加わり、ハマスも武力闘争を強めた。その後、米国が暴力を停止するための仲介作業を行い、アラファトは停戦の取り決めに合意した。しかし、暴力は止まらなかった。それはアラファトが意識的に暴力を使ったというよりも、パレスチナ側で停戦を実施するにも、アラファトにはもう暴力をとめる力がなかったということだった。治安部隊はイスラエル軍の攻撃の標的となって打撃を受けていた。治安部隊や警察がいなくなった真空を、武装勢力やハマスが埋めた。アラファトを支えたファタハの若い幹部も、武装勢力に身を投じた。そうしなかった者は影響力を失った。そのような状況で、停戦を実施しようにも、アラファトにはもう状況を統制することはできなかった」

シカキ氏は「インティファーダで噴出した暴力についてアラファトを責めることはできない。アラファトは自分が生き延びるために、自分の統制を外れた武装勢力との関係を保とうとして金を与えただけだ」という。その上で、「アラファトの大きな失敗は、別のところにある」という。
アラファト議長の失敗とは、何か。「アラファトは生き延びることの天才で、優れた交渉人ではあったが、

24時間態勢で衛兵がつくアラファト議長の墓石

国家の創設者ではなかった。彼は、パレスチナ自治政府を、公共の利益を実現するために強力に機能する公的機関として作り上げようとはなしかった」という。
「自治政府や治安機関は設置されたが、公共の利益を守るためではなく、アラファトや幹部への個人的な忠誠心に基づいて動き、腐敗が蔓延した。議会もあり、基本法を採択するなど民主主義を機能させようとしたが、アラファトはそれを受け入れず、議会を無力にした。対抗勢力のハマスを政治プロセスに取り込むことにも失敗し、ファタハの若い世代を効果的に利用することにも失敗した。アラファトはファタハの古い幹部を中心に強権主義的な体制をつくった。パレスチナは内部分裂や、イスラエルからの圧力など、多くの問題を抱え、それに対応するためには、強力な公的な権力を必要としたのに、アラファトが求めたのは、伝統的なアラブの政治指導者と同じく、並ぶものを認めない個人的な権力だった」

シカキ氏の分析を聞きながら、2002年1月にラマラの議長府で、アラファト議長にインタビューしたときのことを思い出した。議長府から昼過ぎに呼び出しがあり、ラマラ市内で指定されたホテルで待った。議長府に入るように連絡があったのは、夕方6時ごろ。延々と待合室で待ち、夜10時ごろ、呼び出されて、やっと会見かと思ったら、アラファト議長が中心にして、大きなテーブルを囲んで、十数人の側近が並ぶ夜食の席だった。私は議長の正面に座ることになった。議長が、サンドイッチやフルーツなどが並ぶ皿から、フルーツを手にとって、私の方に差し出した。私は感謝の言葉を述べて、それを手にとった。議長は自分の周りに次々と食べ物を与えた。客や側近らは、それを恭しく受け取った。

インタビューは夜食の会の後、さらに2時間の後だった。あの夜食の会で、アラファト議長が見せたのは、アラブの王や部族長が客をもてなす作法だった。シカキ氏がいうアラファト議長の失敗とは、あのようなアラファト流個人崇拝で自治政府を仕切ったことだ。シャロン氏は、そんなアラファト議長を裸の王様とした。インティファーダは敗北と荒廃だけをパレスチナにもたらした。アラファト議長が死去した後、パレスチナに残ったのは、和平に対する不信と、政府の機能不全と、そして西岸のファタハ、ガザのハマスという深い内部分裂である。
(編集委員・川上泰徳)

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