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エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教の共通の聖地である。いずれも、ユダヤ人のアブラハムが契約を結んだ全能の神を「唯一神」として信仰する一神教である。
城壁に囲まれたエルサレム旧市街地には、「神殿の丘(アラビア語ではハラムシャリーフ)」と呼ばれる小高い丘がある。古代ユダヤ王国の神殿が、この丘の上にたっていたため、ここはユダヤ教徒の聖地となっている。現在、ユダヤ教徒が礼拝する「嘆きの壁」はこの古代神殿の西側の壁である。
キリスト教徒にとっては、神殿の丘のすぐそば、やはり旧市街の中に、キリストが十字架を背負って歩いたビア・ドロロサ(悲しみの道)や、聖墳墓教会がある。
そしてイスラム教徒にとって、エルサレムは、メッカ、メディナにつぐ第3の聖地とされる。イスラム教のコーランには神に導かれた預言者ムハンマドが「はるかな地」から天に昇る「夜の旅」をしたとあり、その「はるかな地」はハラムシャリーフとされ、そこには「アルアクサー(はるかな地)モスク」がたつ。
3つの宗教の聖地が重なり合うように存在するエルサレム旧市街は、必然的に宗教的な緊張をはらむことになる。
とりわけ、同じひとつの丘を、それぞれの聖地と考えるユダヤ教徒、イスラム教徒の緊張はすぐ沸点まで上昇する。2000年9月にパレスチナ人のインティファーダ(民衆蜂起)が始まったきっかけは、当時のリクード党首シャロン氏による「神殿の丘」への訪問だった。イスラム教徒は、それを宗教的な挑発と受けとめたのだ。
そしていま、聖地エルサレムでは、新たな危機の火種がくすぶっている。「嘆きの壁」と神殿の丘のムグラビ門とをつなぐ橋の建設問題である。特に、右派リクードのネタニヤフ党首が首相になれば、入植地拡張政策とともに、聖地を巡る強硬姿勢に出て、問題を悪化させるのではないか、という懸念が出ている。
嘆きの壁からムグラビ門には、もともと、古代ローマ時代からイスラム帝国時代を経て英国統治時代にいたるまで、改修が繰り返されてきた盛り土によるスロープ(傾斜路)があった。そのスロープが2004年に一部崩れた後、仮設の木製のスロープ状の橋がつくられたが、ここに常設の橋の建設を求める意見がイスラエルの右派や宗教勢力からあがった。
2006年11月、エルサレム市が、古いスロープを撤去して、新しい橋を建設する計画を承認した。翌2007年1月にオルメルト首相が、橋の建設を承認し、坂の周辺の考古学調査を認め、翌2月にイスラエル考古庁が調査を始めた。これに対して、パレスチナ人は「イスラムの歴史を破壊しようとする」と反発して、西岸やガザで、調査反対のデモが広がった。UNESCO(国連教育科学文化機関)が、歴史的なスロープを撤去することなどに懸念を表明し、現地に使節団を出すなど介入した。オルメルト政権はパレスチナ人や国際的な反発にもかかわらず、計画を進めることを決めたが、エルサレム市長が計画の停止を決めた。
07年7月にオルメルト政権は、いったん調査を中断したが、12月にムグラビ門の考古学調査の再開を決めた。08年7月、エルサレム市の計画建設委員会は、橋の設計の修正案を承認した。新しい案では、歴史的なスロープは残して、鉄製の橋をつくることになり、一方で、嘆きの壁でユダヤ人が礼拝する場所は拡張されることになった。
パレスチナ側で自治政府からエルサレム知事に任命されているアドナン・フセイニ氏(61)に話を聞いた。「エルサレム知事」というのは、「エルサレムはパレスチナの首都」と主張するパレスチナ自治政府によって任命されたものだ。もちろん、パレスチナ人が住んでいる東エルサレムはイスラエルの支配下にあるため、「知事」の肩書きも形式的なものにすぎない。フセイニ氏は、パレスチナの有力家族フセイニ家の有力者で、長年、エルサレムのイスラム教財産を管理してきたヨルダン政府の宗教寄進財産局の局長を務めた。
聖地問題に長年、関わってきたフセイニ氏は、「われわれは昔からある歴史的なスロープを、もとのとおりに修復することを求めている。新しい橋をつくる必要などない。とても美しいスロープで、長い歴史が積み重なったものだ。聖地に勝手に手を加えることは認められない。非常に扱いに注意しなければならない場所だ」と主張する。
イスラエルが出した見直し案についても受け入れられないという。
「イスラエルはヨルダンやUNESCOと協議して、いくらか妥協して、計画を実施しようとしているが、見直し案も必要以上に大きな橋になっている。アルアクサーモスクにイスラエルの治安部隊を入れるためとしか思えない。イスラエルの意図は、イスラム聖地に関わるイスラムの歴史的な遺産を撤去し、同時に、自分たちの礼拝所を拡張しようとするものだ。どのような計画にしろ、聖地の現状を変えることになり、それをわれわれに押しつけようとするだろう。問題は新しい橋ではない。新しい橋をつくるという口実で、イスラエルが聖地に手を加え、さらに治安を強化しようとしている」
ネタニヤフ政権ができたとき、イスラエルはムグラビ橋を建設すると考えるか?
フセイニ氏は答えた。「イスラエルは常に一方的な行動を取ってきた。われわれのいうことには決して耳を貸さないだろう」
ネタニヤフ氏は、故ラビン首相が暗殺された後の総選挙で、96年に首相に就任した。その時に、聖地を巡る武装衝突があった。同年9月にネタニヤフ政権はエルサレム旧市街に神殿の丘の外壁にそって掘っていた観光用トンネルを掘り進み、ビア・ドロロサで地上に出るための出口を開通させた。パレスチナ側から「聖地への冒とく」という非難があがった。
衝突は、パレスチナ人の若者がイスラエルの治安部隊に投石し、それにイスラエル側が銃撃したことによって、西岸やガザにまで広がった。94年にオスロ合意が実施され、西岸とガザでパレスチナ自治政府が生まれ、治安維持のためのパレスチナ警察が創設されて初めて、パレスチナ警察とイスラエル軍の銃撃戦となった。争乱状態が数日続き、70人以上が死亡した。
トンネルは長さ488メートル。石を積み上げた地下倉庫や溝、巨大な石積みなどが続く。トンネル掘削は、1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレムを占領した後、同国宗教省が発掘を始めた結果だ。イスラエルにとっては、エルサレム支配の正当性を引き出す宗教的、政治的意味もあわせもつ。しかし、キリスト教、イスラム教など様々な文化が関わるエルサレムの歴史を掘り返すことになる。また、発掘で、地上の歴史的建造物や住民居住地の壁にひびがはいるなどの例が多く報告され、パレスチナ側は「イスラムの聖地を崩壊させる」と反発する。トンネルは2年前にほぼ完成したが、労働党政権はパレスチナ側の反発を避け、イスラム地区に抜ける出口工事は延期していた。
イスラエルの右派勢力は、ユダヤ強硬派の支持をえるために、入植地問題とともに、聖地問題で強硬な姿勢をとる傾向がある。96年にエルサレムの観光トンネルの出口を開けたネタニヤフ政権や、2000年秋のシャロン氏の神殿の丘訪問などが前例だ。今回、ネタニヤフ氏が首相に返り咲いた場合、ムグラビ門の橋建設問題が、新たな聖地の火種となる可能性が高まることになる。
(編集委員・川上泰徳)