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中東クライシス

[Part4] 家具工場主ムハンマドの夢は、ガザで消えた

ガザとヨルダン川西岸で94年にパレスチナ自治が始まると、日本は実施額では最大の援助国だった。学校や警察官住宅、病院などの建設や改修など、日本の援助の成果はいたるところにあった。

1994年夏、ガザでパレスチナ自治が始まって初めての商工展が開かれたとき、家具工場を経営していたムハンマド・アウダッラ(上の写真左)を取材した。イスラエル北部のハイファ出身の難民だった。右下は今回、再訪したときに撮影した遺影=いずれも川上泰徳撮影

自治開始直後にガザ市では日本のアイデアで「ガザ・クリーン計画」が行われた。大勢のパレスチナ人の若者が落書きで埋まった壁を白く塗ったり、歩道に真新しい敷石を敷き詰めたりするなど雇用対策に役だった。
94年夏、私(川上)はガザで地元の製造業者約200社が集まった商工展を取材した。「いまはイスラエルの業者に製品を売っている。自治の進展で直接輸出できれば事業は拡大する」。会場で竹の家具をつくる工場の経営者のムハンマド・アウダッラ(当時67)が熱い期待を語った。
今回、改めて工場を訪ねた。「父は2年前に他界した」と息子のジャマール(59)が言った。工場では94年に25人雇っていたが、イスラエルによる自治区の度々の封鎖で経済は疲弊し、工員は8人まで減り、3年前に閉鎖したという。94年の商工展のことを話すと、「あのころは希望があった。しかし、1、2年で失望に変わった」と語った。

かつてガザからは多くの労働者がイスラエルに出稼ぎに出ていた。イスラエルは自治開始後、労働者の数を減らし、一方でガザ自治区の経済の自立は認めなかった。
00年にパレスチナのインティファーダ(民衆蜂起)が始まると、イスラエル軍の攻撃は、ガザ空港など自治区の社会経済基盤も標的とした。05年9月にイスラエル軍がガザから撤退した後は、ガザは封鎖状態に置かれ、ガザの経済は死に絶えた。その上に、昨年12月末から3週間の大規模なガザ攻撃が続いた。
ガザの15年間は、いくら経済や社会基盤に支援をしても、和平を実現しないかぎり、あっという間に水泡に帰すという教訓だ。「自治が挫折したことで、自治が始まる前よりも状況は悪くなった」と、ジャマールは深いため息をついた。

(文中敬称略)

取材記者略歴

川上泰徳(かわかみ・やすのり)
56年生まれ。外報部次長、エルサレム支局長、中東アフリカ総局長(カイロ)などを経て、06年から編集委員。07年から論説委員兼務。
 
加藤洋一(かとう・よういち)
56年生まれ。政治部、編集委員などを経て、05年からアメリカ総局長。
 
小森敦司(こもり・あつし)
64年生まれ。経済部、ロンドン特派員などを経て、08年から編集委員。
 
稲田信司(いなだ・しんじ)
68年生まれ。テヘラン、ロンドン特派員などを経て、外交・国際グループの外務省担当。

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