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欧米取材記 「教養」のシッポがつかめるか?

[第1回] ソレって「ある」?、それとも「ない」?

ソレを「ある?」と聞かれて「あります」と答えられる人が何人いるだろうか。「ある」と言うと嫌味だけど、「ない」と言い切るのも少し寂しいような。あるいは、「私にはありますよ」と言った時点で、ソレが「ない」ことになるのでは。そもそも、ソレの定義は何なのか。

わかりにくい書き出しですみません。でも、「ソレ=教養」って非常に難しいテーマだと思いませんか。人によって見方が違うし、だいたい「キョウヨウ」なんて口にするのすら恥ずかしい。下手に書けば「偉そうに」と言われそうだし、欧米の事情を紹介することで「西洋かぶれした輩(やから)だ」と思われるのも困る。

イタリア随一の国立大学、スクオーラ・ノルマーレ・スーペリオーレの授業の写真
多数の教養人が輩出したイタリア随一の国立大学、ピサの「スクオーラ・ノルマーレ・スーペリオーレ」の幾何学授業。「ここは本当にイタリアか?」と不思議になるほど静かだった=大友良行撮影

もともとは、日本の受験シーズンに「GLOBE」なりの教育特集をやってみよう」という話になり、持ち上がったテーマが「教養」だった。海外での取材を担当したのは、GLOBE第1号の北極特集でカナダやロシアへ飛んだ2人。「壮大なテーマに対し、非常に心もとない顔ぶれ」というパターンの再来である。今度は「欧州編」と「米国編」に持ち場を分けて当たったが、「教養」は北極以上に手ごわかった。

少なくとも取材を始めた当初、私たちの心意気は「教養のシッポだけでもつかもうじゃないか」だった。シッポが見えれば、全体像も見えてくるかもしれない。でも、かなりあちこち駆け回って話を聞き、原稿を書き終えたいまでも、「ソレ」の正体がわからない。

ひとつだけ言い訳させてもらえば、「持ってないからこそ見える」ものはあったと思う。

これから書くのは、私たちが悩みながら進めた取材の間に感じたことだ。かなり恥ずかしい舞台裏でもあるが、「なぜ学ぶのか」を考えていただくきっかけになれば、うれしく思う。(郷富佐子)

 

【なぜ学ぶのか?】

情けない話だが、取材で最初にぶち当たった壁は、「教養」という言葉そのものだった。「あなたにとって『教養』とは何ですか?」と問いかけようとしたのだが、日本語の「教養」にぴったりと当てはまる英語がなかなかないのだ。いろいろ相談した結果、米国ではこう質問することにした。

Could you share with us your thought on what it means to be cultured and well educated?

この問いに、学生たちは答えてくれるのだろうか。米国では杞憂だった。「難しい」と言いながらも、1分とたたないうちに自分なりの言葉が出てきた。

「特化した専門分野を持っていると同時に、よりよい社会やよりよい自分のためにその知識を使えること」(サウスカロライナ大3年生)

「しっかり物事を見る目を持ち、結果や独自の意見を導き出せること、文化や社会に自分の意見を持ち、それを人生に反映させられること」(ミドルベリー大2年生)

「たくさんの異なったものの考え方ができること」(ハーバード大学院生)

答えはそれぞれだが、自分の中でしっかりと咀嚼(そしゃく)した答えが返ってきた。おそらく、学生がそうしたことを意識しながら勉強しているのではないか。日本の大学でも聞いてみたが、「難しいですね」の後になかなか言葉がつながらない学生が多かった。

ハーバード大学にある「ハーバード・ヤード」の門のひとつ。
ハーバード大学の中心部にある「ハーバード・ヤード」の門のひとつ。「英知において成長したくば入れ」と刻まれている=米国マサチューセッツ州のハーバード大学で、築島稔撮影

自分の大学時代はどうだっただろう? 一浪して大学に入学したのは1990年。世では大学改革が叫ばれ、91年には大学設置基準の細かい規定が撤廃されたから、旧来の「パンキョウ(一般教養)」を受けた最後の世代になるのだろう。でも、大学時代に勉強した思い出は卒論にまつわるものぐらい。授業で印象に残っているのは圧倒的に、都立高校時代の味のある先生たちの授業だ。

「無知の知とは?」という倫理の授業での白髪の先生の問いかけは、高校1年の自分には衝撃的だった。「コロンブスは本当にアメリカ大陸を発見したのか」と1年間問い続けた地理の先生の授業は、今でも思い出す。そうした「学び」の大切さは、大人になってからわかるものなのだと改めて気づいた。当時は「何でこんなことをずっと言っているんだろう」と疑問に感じたし、微分積分を使う場面は人生でめったにない。でも、ベクトルなんかは、物事を考える上で頭の中によく登場する。今思えば、もったいないことをした。

ハーバード大やミドルベリー大のように、課題図書、宿題、議論と様々な形で学生に負荷をかけて、ポテンシャルを引き出そうとしている様子は大変そうだが、うらやましくもある。「そんなことは自分でしろ」と言われるかもしれない。ただ、日本で必要なのは、もっと自発的に学べる環境の整備なのではないか、と思った。大学の一般教養だけではもちろんなく、その前段階の高校の教育しかり、大学での専門教育を含めた高等教育しかり。自発的にできる人だけでなく、刺激を受ければ学びを楽しめる学生は日本にもっといるのではないか。

リメディアルだ、初年次教育(本編02Patr3)だ、と様々な仕掛けが導入されているが、「いまどきの学生は」と一言で片づけるのではなく、多くの人が大学生になり、学べる環境があることを肯定的にとらえればいい。学生をどう刺激するかは、「教養」を身につけた大人たちが考えなければならないことだと痛感する。ミドルベリー大のリーボビッツ学長は、現在大学が続けている努力に「情熱をつくりだす試み」を挙げた。日本の課題は学生より、むしろ教える側にあると感じる。(築島稔)

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