![[インタビュー:ローファームはどこへ]法律事務所を、永続的な組織にしたかった 「長島・大野・常松法律事務所」長島安治弁護士](images/img_interview_main_01.jpg)

かなり以前から法律事務所の組織化、大型化が必要との持論をお持ちだったとか。具体的なきっかけがあったのでしょうか。
法律事務所の組織化、大型化の必要性を痛感したことにははっきりしたきっかけがある。
私は1949年に大学を卒業してから2年足らず、三菱化成(現在の三菱化学)で働いた。司法試験に合格していたこともあって、文書課という普通は法規課と呼ばれる課に配属されて、よく当時の顧問弁護士に相談に行かされた。その頃、三菱化成の顧問弁護士は5,6人いたが、ほとんど全部が弁護士1人だけの事務所であり、例外としていわゆる「イソ弁」(居候弁護士の略。独立するまで先輩の事務所にいて指導を受けながら仕事を覚えている新人弁護士の意味)が1人いて合計弁護士2人のところが一つだけあった。当時はそれが日本の典型的な弁護士事務所の形態だったと思う。
しかし、こちらは様々な特別法もからむ多様なビジネス上の法律問題を抱えた企業として助言を求めているので、弁護士が1人か2人しかいない事務所では、正直に言って、満足する助言を得られないと感じることがよくあった。そのような事務所では訴訟や一般的民商事法に関する問題はとにかく、そうでない問題についてまで必要な専門的知識を蓄えるのは難しい。また、イソ弁は歴代数年で独立する繰り返しがパターンだったから、個々の弁護士がせっかく知識や経験を蓄積しても、永続的な組織がないからそれぞれが墓場に持っていくだけで、社会的にみても非効率であり、もったいないと思っていた。
1953年に弁護士登録し、同時に、所沢(しょざわ)法律事務所という個人事務所にイソ弁として入ったが、法律事務所は永続的な組織であるべきだと考えていたので、この事務所をゆくゆくはそのようなものにしたいと思って入った。私自身は忘れていたが、当時、陸軍士官学校出身の弁護士の集まりで、皆がいかに早く独立して自分の事務所を開くかを熱心に話していた時に、私が「独立せざるの弁」を打っていたと友人が覚えていてくれた。初めから法律事務所を永続的な組織とし、大型化による専門化を念願していたからだ。
当初から国際的な活動を志していたのですか。
それは全くなかった。「自分にはおそらく、外遊の機会は一生ないだろう」と感じていたほどだ。今からは想像も出来ないかもしれないが、当時の大多数の日本人がそう思っていただろう。「旅情」という映画を見て、米国では田舎町のセクレタリーでも外国旅行できるのか、とうらやましく思ったことを記憶している。
私が弁護士になった頃の民事弁護士の主な業務は、売掛金の取り立て、会社法一般、家屋や土地の売買、明け渡しといった不動産関係、離婚、遺産相続、そして労働関係だったのではなかろうか。
労働関係では、私たちも林野庁の大規模な労使紛争に多年かかわった。
また、日本中の注目を集めた三井三池争議では、私を含めた事務所の3人の弁護士が1週間交代で、3カ月にわたって大牟田の旅館に泊まり込み、「新労組」と呼ばれた第二組合の組合員とその家族の人権を、第一組合員とその家族による様々な迫害から守るために忙殺された。第二組合の事務所に常駐し、警察や検察庁に出かけたり、毎日のように告発状を書いたりするだけでなく、組合内部の会議に出席したり、第一組合の組合員に脅されたり、会社側の弁護士や代議士とも連絡をとったり、打ち合わせたりで、組合の側から大争議を見つめる経験をした。
国際業務に進出したのはなぜですか。
司法研修所による選考を経て奨学金を得て、1961年にハーバードロースクールに留学した。しかし、その後、ボストンの大手法律事務所やニューヨーク、ウォールストリートの名門ローファームに勤務し、1年留学する予定だったのが3年も日本を留守にしてしまった。その間、事務所の同僚に負担をかけ続けていたので、帰国した暁にはそれまでのわれわれの事務所になかった国際分野、すなわち渉外の仕事を立ち上げることで何とか同僚の好意に報いたいと思った。
1964年に帰国する際、ハーバードロースクールで友人となった米国人の弁護士に、1年間、彼の所属事務所(ウォールストリートの著名な事務所)を休職して、短期雇用の外国人弁護士として手伝ってもらい、渉外という分野を新たに立ち上げた。
当然ながら、当初は顧客が1人もなかった。カリフォルニアのある弁護士から、彼のクライアントの某米国企業の社長が日本に行き、某日本企業との契約をするのに法的サービスが必要なので、助言してやって欲しいとの手紙が届いた。喜び勇んで待っていたところ、その社長氏は、やって来るや否やいきなり数枚のドラフトを私に突きつけて、『これが契約書だ。2時間でタイプしろ。誰かを後で取りによこすから』とだけ言って去っていった。その時の落胆と屈辱は今でもありありと覚えている。しかし、間もなく始まった外資系航空各社の羽田空港での労働争議などをきっかけに短期間に渉外弁護士として認められ、国内国外の企業から渉外の仕事が次々と来るようになり、新たな渉外部門は軌道に乗った。
その後、1990年代にかけての事務所と仕事の量、質はどのように発展したのでしょうか。
1961年1月に発足した所沢・長島法律事務所は1968年12月に長島・大野法律事務所に名前を変えた。
渉外の仕事の内容としては、1960年から1970年代にかけては、統計は見ていないが、日本企業による外資法の下での技術導入が盛んで、それに伴うものも含めて外国企業と日本企業による合弁会社の設立も活発だった。われわれも日本内外でのその交渉に参加する機会が多く、多忙だった。また、1960年代後半に入ってからは鉄鋼を中心とする対米輸出が活発になったのに伴って、米国の反ダンピング法、独禁法などに触れる問題が多発するようになり、渉外事務所としてこれらの問題にも深く関与するようになった。また、日本企業・外国企業間の接触が増えるに従って紛争も増え、訴訟に至るものも出てきた。また、渉外事案といえるかは別として、資本の自由化により外国企業の日本への参入が容易になり、多数の外国企業の日本での事業活動が飛躍的に増え、それらの外国企業が渉外事務所の助言を求めるようになったことも渉外事務所にとっては追い風になった。
金融関係については、1970年代から1990年代初めのバブル崩壊まで、日本企業は右肩上がりの成長を続け、設備投資など資金需要が年々増していた。これに対して、国内市場で社債発行により資金調達しようとしても、有担主義(担保付き社債でなければ発行できないこと)など数々の規制が残っていたから、多くの日本企業が無担保社債の発行を規制が緩やかな英米などの海外市場に求めた。そこで、契約書や発行目論見書(もくろみしょ)を英文で作成する膨大なリーガルワークが必要とされた。その後も、日本企業の好業績を背景に、資金調達手段がエクイティもの(転換社債、ワラント付き社債、米国預託証券〈ADR〉、欧州預託証券〈EDR〉など)に多様化して、更に渉外弁護士の関与するリーガルワークが増えた。この間、日本国内でも金融と証券のビッグバンが進められ、金利や通貨のスワップなどのデリバティブ取引を、国内企業が英文契約を使用して行うなど、渉外弁護士の関与すべき領域がますます広がっていった。 要約すると、日本経済の高度成長と日本企業の躍進、それに資本の自由化により、渉外事務所の仕事はバブル崩壊の数年後までは順調に伸びていったと思われる。
2000年の「長島・大野」と「常松簗瀬関根」の合併が、日本における法律事務所の大型化に先鞭(せんべん)をつけました。
一口に法律事務所を大きくするといっても、少なくともわれわれの事務所では一度採用すると、後々まで、ずっと一緒に働くことが相互の暗黙の了解になっていたので、大量に弁護士を採用してからふるいにかけるということはできなかった。採用できても1人か2人、採用出来ない年もあるという時期が長かった。やはり質を維持しながら拡大するのは「言うは易し」で、質の維持と量の拡大を両立させることは難しかった。
正直なところ、私が現役でいる間に、われわれの事務所の弁護士が100人を超えるのは難しいだろうと思っていた。
それが、2000年に金融分野に強い「常松簗瀬関根法律事務所」との合併が実現し、国内ではじめて弁護士が100人を超える事務所となることが出来た。これは非常にうれしかった。われわれの事務所は企業合併・買収(M&A)や金融以外の国際取引、訴訟、労働などの分野では実績があったし、強みもあったと自負しているが、率直に言って、金融の分野では甚だ出遅れていた。それだけに常松簗瀬関根法律事務所との合併は、ただ規模が大きくなり、日本ではじめて100人規模に届く、というだけではなく、業務の領域でも理想的ともいえる相互補完を果たし、非常な成功だった。
100人規模から、300人規模になりました。
現在われわれの事務所の弁護士数は310人(外国法事務弁護士を含む)だが、100人から310人への増加は8年ほどの間に行われたので、かなり急速である。その理由は、需要の増加に応ずるためであったと理解しているが、需要の大きな部分は国内の取引が主であり、かつての渉外事務所とは内容において大きく異なってきている
日本の大手法律事務所は、今後、世界でどのような地位を占めるのでしょうか。どこまで大きくなるのでしょうか。
今後、われわれの法律事務所がどこまで大きくなるのか。現在は事務所の経営には一切関与していない立場なので、わからない。ちなみに6,7年前に日本で長く仕事をしたある著名な米国人弁護士が、日本の5大法律事務所(当時)のうち、4つまでは外国の法律事務所の傘下に入るだろうと予想していたが、これまでのところ、それは外れている。
われわれ弁護士は、法律サービスに対する国内国外の企業の需要に応える使命を負っているのであるが、日本の大規模法律事務所がどこまで大規模になるかは、とりわけ日本の経済がどこまで強くなり、日本の企業がどこまで活躍の場を広げるかに大きく依存するだろう。
一方で、日本の法律事務所が海外、特に米英の巨大ローファームと国際的な舞台で太刀打ちできるかというと、これはそう簡単ではないだろう。個人的にはそう考えている。
なぜ「簡単ではない」のでしょう。どのような課題があるとお考えですか。
なぜかというと、周知のように現在の国際取引に用いられる言語は圧倒的に英語であり、国際取引契約の当事者が合意により選択する適用法がニューヨーク法かイギリス法である例は非常に多いという点で、少数の例外はあろうが、日本の弁護士はハンディキャップを負っている。次に、外国で事業活動をする日本企業が、自国の法律事務所を頼りにする度合いは、鶏と卵の関係ではあるのだが、米国やヨーロッパの企業と比較して甚だ低い。
これらのハンディキャップを克服するには、日本の大規模法律事務所だけに期待するものではなく、また日本にある外国法律事務所に勤務する日本の弁護士だけに期待するのでもなく、多くの日本の弁護士が日本を飛び出して外国の法律事務所、国際機関、企業などで、あるいは独力で働くことが不可欠であると思う。既にそのように外国で活躍している日本の弁護士はいるが、現在では余りにその数が少ない。
やはり、クリティカル・マス(臨界量)を超えなければならないと思う。クリティカル・マスを超えれば展望が開けてくるかも知れない。また、それに加えて、日本の大規模法律事務所が、外国の法律事務所と提携するかどうかは別として、主要国の弁護士をその組織の中に取り込み、日本のみならずいくつかの主要国に混成部隊を配置することにより、国際競争力をつけていく試みも必要かも知れない。少なくとも、特定の分野(例えば税務)に限って試みる価値はあるのかも知れない。