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Breakthrough 突破する力 演出家 小川絵梨子が瞬間をつなぎ、物語に命吹き込む「外の風に触れ、全力で扉押した」



9月に演劇部門の芸術監督に就任する新国立劇場で=東京都渋谷区 Photo:Semba Satoru

演劇が「居場所」だった


演劇との出合いは、祖母や大叔母のお供で劇場に出かけた子ども時代。人前に立つのが好きだった少女は当然のように、聖心女子学院初等科で演劇部に入った。「幼稚園の頃から演じるのは主役。好きなことへの集中力はすごかった」と、母・泰子(69)。ところが、中等科に進み、目立つことが嫌になる。同級生がいないからと演劇部も避けた。自意識が強くなる思春期。小中高一貫校の密接な人間関係も息苦しく、ストレスから甘い物を大量に食べ、体重は40~70キロ台を乱高下した。


一方、演劇熱は高まっていく。1980年代の小劇場ブームから生まれた才能たちが、多彩なスタイルを競っていた時代。軽やかな身体性と言葉遊びから壮大な物語を立ち上げる野田秀樹、笑いに包み人間の本質を描く三谷幸喜。共に劇作と演出を兼ねる2人は、小川にとってスターだった。


中等科3年の時にやってきた転校生と一緒に、演劇部に入部。窮屈な日常の中で唯一、ありのままでいられる場になる。高等科3年で「銀河鉄道の夜」の演出を担当したのは偶然だった。「引いて見る方が面白いし、アイデアを思いつくのも楽しい。私がやりたいのは演出だ」。演劇を学べる大学への進学も考えた。でも結局、系列の女子大へ。女性だけで演じる学内の演劇サークルに興味はわかず、かといって、他大学の劇団に入る勇気もない。人に合わせようとしすぎて、自分の感情が分からなくなる――。そんな自分を変えることができず、嫌になっていた。


転機は20歳で訪れる。友人が留学中のニューヨークの大学で、演劇の授業を見学した。知識を体系的に学び、それを作品づくりにつなげる学生たちに驚く。「演劇は『勉強』できるんだ」。ここでなら、集団の上下関係が苦手な自分も、と思う。


学校見学のためニューヨークを再訪。役の内面を重視する演技理論で知られ、マーロン・ブランドらも学んだ名門俳優訓練機関「アクターズ・スタジオ」の設けた大学院を志望先に選ぶ。TOEFLの点数は入学基準に約20点足りなかったが、熱意で押し通せると、上達を約束する手紙を添えた。合格した。


一人暮らしも初めてで、海外生活はやかん一つ買うにも苦労するサバイバル。言葉の壁も立ちはだかった。学生はネイティブばかり。講義が聞き取れない小川を見かね、「学校が責任をとるべきだ」と憤る教師もいた。しばらく泣いてばかりの日が続いたが、気持ちは伸びやかだった。「生き抜くために頑張るのは面白かった。全てが新しく、何でもいいんだと思えて」。級友にも助けられた。1人は校長と交渉し、費用は学校持ちの家庭教師になってくれた。「1時間20㌦。無料でも教えてくれたろうけれど、筋を通したんだと思う。文化が違う!と衝撃でした」


演出の授業に加え、いかに心と体で役に向き合うかといった演技の基礎訓練からも多くを得た。3年間、言われ続けたのは〝Moment to Moment〟。「何かが起きる生き生きとした瞬間と瞬間を確実につなげ――。稽古場で今も繰り返している」


卒業後も帰国せず、短期の研修プログラムや仲間との劇団で演出を続けた。大正後期~昭和前期の劇作家・岸田国士の短編を、小劇場で日本人俳優と英語で上演。ニューヨーク・タイムズ紙に、短いが好意的な評が載ったこともある。ただ、次第に英語を母語としないハンディも感じ始めた。と言って、日本に拠点を移す足がかりもない。30歳を目前に焦りだした。


しばらくして、サム・シェパードの戯曲「今は亡きヘンリー・モス」の日本語訳の仕事を受ける。依頼主は、知人の紹介で知り合ったプロデューサー・江口剛史(59)。兄弟と暴力的な父親との関係を描く幻想的な物語を、小川は、チェックを頼んだ米国人の劇作家があきれるほど、原文と日本語の距離感を確かめながら、入念に訳した。一読し、江口は驚く。「3人の関係性がフワッと浮かび、台本がよみがえった」。迷わず、演出も頼んだ。

(次ページへ続く)

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