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半年先に迫る中国の上海万博で、大型彫刻を公園に完成させる仕事を、清水敏男は引き受けている。
アートキュレーターという肩書は耳慣れないが、いわば芸術と社会の橋渡し人。万博では「都市環境」という公園のテーマを表現できるアーティストを国を問わず探し、公園の空間に調和する作品に仕上げる。訪れた人がいい気分になってくれれば、自分の役目は完結する。
万博運営側の要望に従い、次々と提案した作家は100人を超えた。その中から最後まで残ったのは、鉄を素材にするドイツ人の1点だけ。計画は紆余曲折。毎朝予定が変わっている。
全長40mの作品をこれから現地で制作するとは聞く方が焦るが、「この世界では毎度のこと。辛抱強く対応し、進められるときは一気に、ですよ」。
美術館のキュレーターとして12年、独立して12年。人と人との関係を資本に、自分がアートを通してやりたいこと、世の中が受け入れることの尾根づたいに進んで、「街」が清水の展示室になった。
旧防衛庁跡地の再開発「東京ミッドタウン」は、10haの敷地に2年前、突如現れた街だ。毎日2万人が働き8万人が訪れる。清水は、その玄関にあたる地下に、白く丸い姿の大理石の彫刻をコンペで提案した。派手さで目をひくより、やさしく人を迎える気持ちを託した、イタリア在住の安田侃の作品。作家の「直接触れてもらいたい」という希望から、大きすぎず、台座をつけず、そこで始まる日常にとけ込むようにした。
昼、夜と近くで眺めてみた。通り過ぎていく人の合間に、小さな子が作品の大きな穴にもぐりこんだり、待ち合わせの人が石にもたれて、なめらかな肌をさわったり。
同じ安田の作った黒い彫刻は、人がかわるがわる腰掛けるせいで、その部分だけぴかぴかに光っている。
清水は「よいアートにふれるのは基本的人権」という米国のパブリックアート活動家に共感する。それはまるで反対だった「彫刻公害」への自戒でもある。
戦後、自治体は競うように、駅前広場や通りに野外彫刻を設置してきた。
しかし、その土地の歴史や暮らす人々に関係なくただ置かれた作品は、愛されなかった。
放置自転車に囲まれて、「見たくない」と反対運動まで起きたのだ。
では「自分ならどうするか」。名古屋駅北側の再開発ビルでは、若手アーティストを起用。駅から続く290mの地下道を絵本に見立て、黒猫が主人公の作品を生んだ。施設のスタッフは、オフィスで働く人から「あれいいね」と声をかけられるという。確かに、壁や天井を駆ける猫の姿を追ってこちらも歩くうちに、退屈せずにビルについてしまった。
東京生まれ。物心ついたころには、父に手を引かれ美術館に行き、教養も庶民の娯楽という高度成長期の空気の中で育った。チョコレートやお茶漬けのりのおまけだった名画カードを集め、高校になると放課後は仲間と展覧会を巡る。印象派も浮世絵も茶道具も面白かった。「金持ちかどうか関係ない。美術館に行けば、いつでも誰の目の前にも本物があった」
大学では仏文を専攻し、卒業後、フランスに6年留学。その前の2年間、アルジェリアでイスラム文化に浸った。学費稼ぎを兼ねて、5カ国が参加する石油化学工場の建設現場で日仏の通訳をした。
「すぐに学んだのは、律義に訳すと、話はまとまらないということ」。互いのプライドを損ねないように言葉を選び、おおむね皆が納得する方向に結論をもっていく。度胸と交渉術のイロハが身についた。
帰国後、開館して間もない東京都庭園美術館を職場にする。しかし、パリで美術館運営の教育を受けた身にとって、日本の組織は年功序列、公務員の世界だった。公立美術館の多くで、企画は共催する新聞社など外部主導、学芸員は展示を実現させる裏方がよしとされる。内輪では「雑芸員」と自嘲気味な言い方さえあった。優秀な人材はたくさんいるのに、そのエネルギーは外に向けた展示より研究や執筆に注がれていた。
清水は自主企画にこだわり、チャンスを探ってアイデアを練った。「いい企画には、支持者がでてくる」。公立では無理といわれたヌードを含む写真展も、高尚な芸術論ですきなく理論武装して企画を通し、「開館以来」の動員数をあげれば、前例になった。
ニューヨークでは交渉相手に「どこに泊まっているか」と必ず聞かれた。
宿の格で値踏みされるのだ。職員の出張予算で宿泊費は90ドルしかない。
ならばと清水は、アート関係者が「趣味がいい」と認めるホテルを1泊だけ、自腹で400ドル払い、その日にアポイントを集中させる。スタートラインに立てれば、あとは実力次第だ。
(次ページへ続く)

自分にどんな「力」が備わっているのか。何が強みなのか。編集部が用意した10種類の力から「独断」で選び、順位をつけてもらった。
1959年、東京都大田区池上生まれ。
77年東京都立大卒業。83年ルーブル美術館大修士課程修了。85年から東京都庭園美術館のキュレーターをつとめ、91年水戸芸術館現代美術センター芸術監督に。97年に独立、02年にTOSHIO SHIMIZU ART OFFICEを設立。04年から学習院女子大教授。オフィスのスタッフは現在10人。