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隣の客席から、ずるずると鼻水をすする音が聞こえてきた。こっそり横を見ると、ハンカチで何度も涙をぬぐっている。一緒に映画「おくりびと」を見ていたときのことだ。スクリーンには、生き別れになったまま亡くなった父親への愛憎を乗り越え、息子が無心に遺体を納棺する場面が映っていた。
旧ユーゴスラビア、アフガニスタン、イラク、スリランカ、スーダン……。世界中の紛争地や被災地で、数え切れないほど悲惨な「現実」を目の当たりにしてきた木山啓子が、「作り物」の映画で泣くのが意外だった。
記者の視線に気づいたのか、エンドロールが流れたあとで「仕事では絶対に泣かないと決めているのよ。でも私、けなげにもがいている人に弱くて」と照れ笑いした。
木山の涙腺を刺激する「もがく人」は、自身の姿にも重なる。
大卒後に就職したメーカーでは、やる気が空回りした。上司を喜ばせようとがんばったのに、評価されず落ち込んだ。「自分を変えなければ」と退職し、米国の大学院へ留学したが「役立たずのまま帰ってきた」。甘かった。
再就職したが、思うようにならない。「現場に出る仕事なら変われるかも」と、友人の紹介で医療系の国際支援をするNGOへ。さらにJENの前身組織へと転職、異動を重ねた。
転機が来たのは94年。現地代表として旧ユーゴスラビアへ送り込まれた。
当時、旧ユーゴではボスニア紛争でモスレム人、セルビア人、クロアチア人の3民族が激しい戦闘を繰り広げていた。NGOの関係者たちも「世界で一番危険な現場」と呼んでいたが、34歳の木山にとっては「ふがいない自分」を変える正念場だった。
派遣されて間もなく、クロアチアの難民収容センターへ行ったときのことだ。カフェや街角で、それまでになく多数の兵士がいることに気が付いた。
「いまなら『戦闘が始まる兆しだ』とわかる。でも当時は本当に未熟で、そこまで考えが及ばなかった」
翌日、JENの現地事務所の至近距離で砲撃音が響いた。クロアチア軍がセルビア軍を急襲したのだ。知らないうちに前線が動き、中に入ってしまっていた。
あわてて窓際から離れ、スタッフと部屋の中央で身をすくめた。生まれて初めて空襲警報を聞いた。
スタッフをどう避難させるか。恐怖のなか、必死で指示を考えた。無事に逃げられたのは「運も強かった」と言う。住民が逃げたあとの村では、兵士が電化製品などを略奪していた。「戦争は陣地の取り合いで、前線は生き物だ」と実感した。
(次ページへ続く)

自分にどんな「力」が備わっているのか。
何が強みなのか。
本人の「独断」により、自信のあるものから順番に並べてもらった。
1960年、千葉県生まれ。
立教大学卒業後、メーカー勤務などを経てニューヨーク州立大で修士号を取得。JEN(本部事務局・東京都新宿区)の前身組織である連合NGO「日本緊急救援NGOグループ(=Japan Emergency NGOs)」の立ち上げに参加。モンゴル雪害やインド西部大地震、フセイン政権崩壊後のイラクなどでも活動。06年の日経ウーマン主催「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」総合1位。