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店の守り神のような大鍋で煮出す鶏の白いだしは、「どんな素材にも添うよう澄んだ味に」。ローストした豚肉は「ごろりと大きく盛りつけ、イ ンパクトを持たせたい」。つけあわせのリンゴ一片も「美しいと思うか」と、焼いた料理人に問う。忙しさを理由に料理を単なる作業にはさせない。
「自己規制してトリュフを申し訳程度に少しだけ使っても、料理人もお客 さんもうれしくない。ならば、別の原価の無駄を省けば、厚めに盛れる」 。使いたいものを自信を持って使える環境を、自らつくろうと語りかける。
「同じ銘柄の仔牛も、きょうの肉の状態を必ず聞かれる」と小島のもとに肉を届ける業者は話 す。「フランスが長いのに、本場と違うという言い方はしない。国産のユニ ークな肉探しに気合が入りました」
06年まで2度にわたり、フランスに計15年暮らした。最後の3年間は、 モナコの三つ星レストラン「ルイ・キャーンズ」で、ナンバー2の副料理長だった。 お抱え料理人を持つ上流階級の食卓を再現すべく、銀食器でサービスする。 F1レースの日は、テラスいっぱいにテーブルが出て華やかなこと。
その厨房は「そこまでやるか」の世界だ。アスパラガスは、専用の定規で穂先から13センチで切りそろえ、下の2センチはくるりと皮をむく。 皿の上で一番美しくみえるように。料理の仕上がりは1分単位で指示が飛ぶ。 同じテーブルでは異なる料理でも同時に、最良の状態で食べ始めてもらえるように。
地中海の食材をふんだんに使い、思い通りに厨房を動かすのは料理人冥利に尽きたが、帰国を決めた。「故郷は日本。日本でおもしろく仕事ができないわけはないと考 えたんです」
だが、その心境に至る道のりは平坦ではなかった。
最も厳しい思いをしたのは、01年からの1年あまり。再渡仏してルイ ・キャーンズに入った直後だった。
20人の料理人がしのぎを削る。誰の顔にも「おれが一番」と書いてある。
仕事は料理の段階ごとに5部門あり、小島は冷前菜を任された。20歳そこそこの部下が5 人。ところが、ハト1羽をさばくにも、スピードもできばえも、基礎からたたき込まれた彼らにかなわない。
できなければ見くびられる。当時36歳。つらかった。
オーケストラのように大きなチームの核となる経験を積みたい、という再渡仏の動機をかみしめながら、休日も食材を買い込んで自宅で料理漬け。手と頭を必死に動かしていた。
1年が過ぎた夏の終わり。ソース担当のポジションが空くので「やってみるか」と声がかかった。厨房の中から出る「味」をすべて集めてソースに凝縮する役割で、 すごろくでいえばあがりの一歩手前だ。最初の渡仏で出会い、生涯の師と慕う料理長フ ランク・セルッティがくれたチャンスだった。
初日の注文は、秋を告げるシカ肉のコショウ風味。ストーブの前に立つと、「肉は焼ける」「このソースならわかる」。自然に体が動いた。
一番いじめられた、しかしあっぱれな味を出す同僚は、その日は無言だった。
09年3月。小島はブノワの春の新しいメニューに、「グリーンアスパラガス ソースムースリーヌ」と書き入れた。ゆでたての熱々に、卵黄を泡立ててアスパ ラガスの裏ごしを加えた淡い緑のソースをとろり。神奈川の畑から直送してくれる農家を探した結果の、人ありきのひと皿でもある。
見慣れたアスパラでも、とれたては香りや甘みが別物のように鮮烈だ。
だから、皮は、むかない。「その必要がないほど柔らかく、穂先より下の方ほどおいしいと農家の人に教わった」。料理と人間関係と人生との一致。それはセルッティに学んだことでもある。
春メニューの初日、小島は副料理長2人と額を付き合わせるように、ソースの仕上がりや盛りつけを確認していた。シェフが特定の客とだけ話す光景は嫌いだか ら、厨房を離れない。しかしサービス担当者の顔を見つけては、しつこいほど客の反応をたずねる。“tresbon!”(とてもおいしい)と伝えられても、 うなずくだけで次の質問相手を探していた。