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そんな思いをくすぶらせたまま、旧ユーゴスラビアで初のポジションを得る。紛争下のクロアチアで8年間、ザグレブ・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者と音楽監督を務めた。
ある時、楽団が奏でるチャイコフスキーから、スラブ民族の情念がふつふつとうねり出すのを感じた。大学で音楽を分析的に学んでいた頃には、ついぞ覚えることのなかった恍惚(こうこつ)。「異邦人」のコンプレックスに苦しんでいた自分が、突如、クラシックという大河へと解き放たれたように思えた。
「彼らも、クラシックの世界では異邦人。なのに、これほどの深い情念を音楽から引きだした。私にだって、できないはずがない」
ドイツやフランスではなく、最初にユーゴに来たのが運命だった、と心から思えた。
「自分を苦しめた劣等感が、日本を突破する力を私にくれた」
ここから大野の躍進が始まる。
準備の完璧(かんぺき)さ、演出家や歌手らの立場やプライドに配慮した的確な指示。世界のどの歌劇場でも、その仕事のこまやかさは人々を驚かせた。
光の当たらぬ裏方に対しては、とりわけ気を配らずにいられない。歌手たちが立ちげいこを終え、舞台での練習に入るその日。ひっそりと仕事納めをする練習ピアニストを、大野はすし屋に誘い、労をねぎらう。
自ら歌劇場でピアノを弾き、歌手たちの練習に付き添った下積みの日々を忘れることはない。現場すべての人間への共感が、大野の仕事の礎だ。
パリでは新作オペラの本番の10日前、ストライキに入ったオーケストラの部分を3台ピアノ用に編曲、初演を乗り切るという離れ業も演じた。
フランスのメディアはこぞって「脱帽」「逆転勝利」と絶賛したが、大野の心の中にあったのは「一緒に舞台をつくってきたみんなの努力を、ここで水の泡にしてたまるか」という意地だった。
徹底して自分を消す性分は、自らを指すときに「わたくし」を使うこだわりにも現れている。
「『僕』とか『オレ』とかって、自分が自分が、と言っているようで」
大野の、能面のような「無」の表情は、周囲に無用な憶測やいらだちを与えない。名前どおりの「和のサムライ」。自我を脇におきつつ、ひたすらに一本の道を突き進む、古武士のようなたたずまいは、いつしか国境を越えて人々を魅了する力となっていた。
そんな大野に目をつけたのが、リヨン歌劇場の若き総裁、セルジュ・ドルニだった。
パリから超特急で2時間、人口約45万人の街から、世界を驚かせる舞台を発信したい。その夢をかなえる相棒にドルニが選んだのが、同世代の大野だったのだ。
「カズシほどグローバルな空気をまとう日本人はいない。それでいて、他者を敬う『日本人らしさ』を誰よりも感じさせる。かつてないタイプのカリスマになる指揮者だと思った」
年末の大野は、1月にプレミエ(新制作公演)を迎えるドストエフスキー原作、プロコフィエフ作曲「賭博師」の立ちげいこに忙しかった。演奏が難しく、今はほとんど上演されない作品だ。
演出家は、オペラ経験の少ない演劇畑の若手。構想が歌手に負担を強いかねない局面では、「これでは歌手が互いの声を聴けないですよ」と軽い身のこなしで歌手との間に割って入る。
さまざまな言語で渡り合い、不在の歌手のパートをロシア語で歌い、時には自ら演じてみせる。そんな姿も歌手たちに安心感を与える。
プレミエに挑む歌手たちのプレッシャーは、想像を絶するものがある。つわものの指揮官が、自分たちの苦しみを知り、包み込んでくれる。そう信じられて初めて、彼らは舞台でのびのびと羽ばたく勇気を得るのだ。
「誰もがいい舞台をつくりたいと思ってこの場に集まっている。みんなのその思いを裏切ることなく、音楽を、歌手を守ってゆく。それが私の仕事」
リヨンでのお気に入りの店は、お好み焼き屋。時には焼き肉をほおばりつつ、熱く相撲の未来を語る。夏には必ず帰国し、慰問コンサートで全国各地の病院を巡る。日本人であることに、今はどこまでも頑固だ。
「異邦人だからこそ、到達できる世界もある。そう思えるようになりました」
(文化グループ・吉田純子)

こちらで用意した10項目のうち、残ったのは「集中力」のみ。後はすべて大野本人による造語だ。スポーツ好きの彼らしいのが1。ひとつのモノや人に興味を持ったら、その周辺までとことん調べ尽くし、場合によっては自分で体験してみないと気が済まない。そんな好奇心の強い性分をイメージした言葉なのだという。音楽を耳にするたび床を転げ回っていた幼い頃と何も変わっていないのだという。7もそれに近いニュアンスをもつ。
2は「人の懐に入る力」。3~6は、人々の心を束ねるには常人の倍以上の準備と覚悟が要る、という大野の信念を映す。これらの力が、大胆さときめ細かい「日本流気配り」を併せ持つ、大野の仕事に結晶している。
8は、自分の信念を貫くためには、あまり周りの言うことを意識しないほうがいいこともある、との思いから。「日本人はとかく、他人の言葉を気にしすぎるから」だそうだ。
9は世界のどこに出かけても、お米を食べずにいられない大野ならではの選択か。10は人の懐に入るために欠かせない「戦術」。時に笑いをまじえながら、歌手同士のプライドの衝突や演出家に対する違和感といったトラブルの芽をひとつひとつ摘み取ってゆく。それ自体が、すでに一流の芸の域に達している。