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歴史に翻弄された母を描いた『マリウボリから来た母』ドイツで読まれてます

[第204回] 美濃口坦 翻訳家兼ライター

photo: Semba Satoru

ライプツィヒブックフェア文学賞を受賞した『Sie kam aus Mariupol(マリウポリから来た母)』は、母親のルーツをたどる自伝的小説だ。著者のナターシャ・ヴォディンの両親は、ドイツとソ連の戦争中、ソ連の支配下にあったウクライナからドイツに連行され、軍需工場で強制労働に従事した。1945年生まれの著者は、反ソ感情が強い戦後の西ドイツで育ち、学校で差別や迫害を体験。自分たちが「戦争の残骸」と見られていると感じたという。


表紙の女性は母親で、著者が10歳のときに近くの川に身投げした。母のことはウクライナのアゾフ海沿岸にある街マリウポリで生まれたのを知るだけ。死から半世紀以上を経て、その存在感は薄れていくばかりだった。


数年前、著者は冗談半分でインターネットの検索エンジンに母の名前を入れてみたところ、「アゾフ海ギリシア系住民」の消息を尋ねるサイトがヒットした。著者は「自分の心の外でも母が存在する」ことに感動。サイト運営者らの支援を得て、母の過去を取り戻そうとする。


母の生家は貴族で、祖父はマリウポリの資産家。母は3人きょうだいの末っ子で、姉は反政府運動で強制収容所に送られたが、生き延びて教師となった。兄はオペラ歌手として名をなした。著者は彼らの子孫と連絡をとり、母の姉が残した回想録を入手する。


母親を直接知る人はいなかった。ロシア革命直後、内乱と粛清の嵐が吹き荒れた1920年に生まれ、独ソ戦の最中にドイツへ連行されたからだ。


社会主義革命で貴族が「人民の敵」になった国に誕生した時から、母は非人間的に扱われ続けた。だから母は絶えず何かに怯えていたし、自分の出自についても沈黙し続けた。


著者の幼い頃の記憶では、母はドイツ人と結婚したロシア人女性の家で、一度だけ、ショパンの前奏曲「雨だれ」を演奏した。母がショパンの名曲を演奏できたのは、ドイツでは「劣った人間」とされた母が、実は音楽の素養が重視される元貴族の家庭で育ったからだった。


受賞式で著者は「母についての断片的な記憶の意味が分かり、母との関係の空白が埋まった。この小説を書けて思い残すことはない」と語った。



(次ページへ続く)

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